ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
みかんのなかみ
記事一覧
[ 総Blog数:295件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
2009/07/03のBlog
[ 19:03 ] [ いじめ ]
先日、いじめの経験者(被害者、加害者とも)が、小中学校で70~80%あるという報告が報道されました。
加害者被害者が入れ替わることが問題にされていますが、私が問題にしたいのは後2~3割の子ども達の意識です。

自分は被害者にも加害者にもなっていないと思っているのか、あるとは思えないいじめ0の学校時代をすごしてきたのか、ということです。

はっきり言いますが「傍観は加害者側です」。
その意識を持っているかどうかが問われるべきであると私は思います。

はっきり言えば、あのアンケートは100%「学校にはいじめがあった」ということをいっていると考えたほうが正しいと私は思います。

いじめにかんしての私の考えはこちらをご覧下さい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yuispace/column/ijime.html


いじめにかんして、
以前から私が指摘してきている言葉の誤用についても改めてここにも書かせていただきます。

幼児用教材、学校の宿題その他でよく使われている言葉に、
「仲間はずれを探しましょう」などという言葉があります。

いまどきの子どもたちは2才くらいからこの言葉の元に学習してきているといっていい状況です。
「仲間はずれ」とはいったいなんでしょう?
「疎外」ですよね。

これが使われるのは、特徴、用途、などが違うものを識別することを目的とした課題であるわけですが、それは単に「違うグループに入るもの」を「より分ける」ことが目的であると思われます。
「分類」の課題ですよね。大切な学習であると私も思います。

しかし、実際はこの言葉を使っていることで、違うものを「疎外しなさい」と言っている訳で・・・。

詳しく言えば、課題の目的は、何かをある一つのグループから「疎外」することが目的ではなく「違うグループに所属していること」を認知させることが大切であって、そこまでの認知を持たせられるかどうかが大切だと思われるのですが違うのでしょうか。

たとえば、
犬、ねこ、ねずみ、魚、とあった場合、動物という点では同じグループに入っているが、魚は水中で生きる動物、つまり、生きる場所が違うということを認知、識別して、「例」「外」とする、ということでしょう。

「違う」ということは「悪」ではありません。
「違うものは疎外しろ」は「悪」です。

「それぞれ」の「違いを知る」ことの大切さがこの一言で台無しにされるばかりか、悪く洗脳しているとさえ私は思っています。

みなさんはどう感じておられるでしょうか。
2009/07/02のBlog
[ 01:07 ] [ イベント ]
焼けました、焼けました、私の肌も。

ピザだけでなく、これも手づくりのシソジュースを持ってきてくださって、これのおいしいことおいしいこと!

私は前夜に夜なべして作った桃のジャムを持参。
味については内緒。

おなかいっぱい食べた後、なお!
採りたてのトウモロコシを生で試食?
「まるで砂糖をかけてあるようだ!!!」と大評判。

春には山菜を取って食べるとか、お茶摘み体験後、茶粥を食べたり、冬にはミカン狩り、正月明けにははっさくのマーマレード作り体験などいろいろなことができるプログラムがあります。

子どもたちを含むグループなどで、体験したいという方はお問い合わせくださいね。

子ども時代にはしっかり子どもの時間を味わうことができる環境づくりもうちの目的です!

子どもの課題に関するいろいろな講演、コミュニケーションスキルアップ講座、媒介的料理教室(これに関しての詳しい話はまた)の講師もやっています。
2009/06/30のBlog
[ 19:25 ] [ 発達障害 ]
ある方がある場所で「発達障害を持っている子にはなるべく早く自覚させたほうがいい」「大人の自分にも同じようなところがあるからと話したりして」と。

私はそうは思わない。

いったい誰が、何人の人が、何の根拠で、人を発達障害と名指し出来るのか?
誰も断言できないのが現実と言っていいのだ。

こちらがその子のなんらかの課題に対してどう対応したらよいか考えるのに情報の一つとして仮説を立て、対応がうまくいけばそれでいい場合も多い。

虐待を受けてきた子が落ち着きがなくなる場合もあるからそれを単にADHDとして済ませていいのか?ということもある。
この見分けは専門家でも容易くはない。

ソーシャルワーク的視線、支援が大切だったりするが、いまの日本の子どもに関するネットワークは心細い限りである。

私の経験では、公的場所で、ある障害名をつけられた子が「自分は●●という障害やからできなくても仕方がない」と投げやりになってしまい、その意識を変えるのに大変な思いをしたこともある。

以前、人格障害を持った子に「あんたは人格障害を持っているんだから、周囲が悪いのではなくあなたに問題があるのだ!」と言い切ってから、自分は関係を切り、次に対応することになったこちらが困ることになった例もある。
人格障害の場合、多くは、当然本人は認めないばかりか、その後の指導が入らないことになる・・・。

大人で、なぜ自分はいろいろなことがうまくいかないのか?何かある?と自覚があって苦しんでいる人に、もしかしたら●●の可能性もあるよ!と伝えて、本人が楽になることは多々あることは否定しない。

しかし、子どもの場合、どうせいでも混乱し、自己肯定感が薄くなってしまっている場合に、断言も出来ないのにただ障害名を与えるのには多くの問題があるということを私は実際に対応している人間として断言する。

たとえ何らかの障害を持っていたとして周囲がそれに対しなんらかの希望が持てる対応が出来るのならその限りではないと思う。

そういう子の親にもいろいろな人がいて、障害名を付けられて自分の責任ではないと認められて喜ぶ人もあるし、ショックを受けて子どもへの関心が薄れるような人もあるということを私は経験してきている。

大切なのは障害名をつけることではない。
子どもが持つ何らかの課題に対して周囲がどう最善の対応がとれるかを考えることだと思う。
そのための情報の一つが「障害名」であると私は思う。

本人への告知は多くの選択肢の一つでしかない。

何らかの課題を持った子に対し、なるべく早い手助けの開始は間違いなく必要であるが、早く診断、告知することに意味があるのではないということを私は重ねて断言したいと思う。

昔はなかった発達障害という概念自身、実はいまだに不透明であるということを忘れてはならない。

落ち着きのある3歳の子に「自閉症」と断言した専門家(間違いです)、小学3年の子に、4種類の障害名を同時につけそのどれもに「~の疑い」と書いた専門機関の専門家もいる。

「●●心理学会」というような場所で「診断に来た子には必ずどれかの名前をつけて、後に~の疑い、とつける」という報告も現に有った。

また、親、本人も苦しむ、間違いのない社会への不適応状態の子に「なんでもないから」と帰した場所もある。

学齢期においては人の差別のために使われてしまっているような現状があることも付け加えたい。

もちろんそれは「間違っている」し、誰にも何の利益ももたらさないのだ。

何らかの障害があるからと幸せに暮らせないような社会は誰にとっても暮らしやすい社会ではないのだということはもう証明されていると私は思う。

ならば、私たちが「しなければいけないこと」は、何らかの課題を持っていると思われる子に障害名を告知することではなく、どんな課題があろうとも「社会の中で幸せに暮らしていける環境、スキルづくり」だということを再確認したい。

そのためのツールの一つでもあるIEプログラム(認知能力強化プログラム)があることを多くの人に知っていただきたいと切に願う次第である。
2009/06/27のBlog
[ 12:14 ] [ 強迫神経症 ]
この症状が出るのは、過度な「不安」が原因。
その不安を取り除けたらそれが一番いいのでしょうがなかなかそれができないならば「不安に倍する安心」を与えられたらいいのだと思います。
「何があっても捨てられない」「何かがあったら助けてもらえる」「自分は大切な存在」とかが心にしっかり根付けばいいのだと思います。

先ほど「過度」と書きましたが、ここで周囲が心しなければいけないのは「人によって過ぎる量は違う」ということです。

「これくらいのことで」などと言われるのを聞きますがそれははっきり言って「あなたに言えることじゃない!」と思います。

人によって限度は違って当たり前ですし、子どもは当然経験量などの違いもあって耐性少なくて当然。
なのに、です、
いまどきの子どもは、実際は、大人より以上の不安を抱えさせられています。

よく「いまどきの子はすぐキレる」などと言われますが私は全くそうは思っていません。
ちょっとしたことで切れるように見えたとしても、実はそれまでにたくさんたまってきているものがあるからだと思っています。

コップに盛り上がるように入れられた水。
表面張力でなんとかこぼれずにいます。
今、子どもたちが置かれている状況がそういう状態であると私は思っています。
で、そこに、たった一滴加わっただけでその均衡は破れてしまう。切れる。
一滴以上の水が当然こぼれてしまうのです。
その状態を見て「いまどきの子は」というのはいかがなものでしょうか?
コップをいっぱいにしてしまわない努力が周囲に求められることではないかと私は思っています。
緊張は人を疲れさせます。
「パンツのゴムひも理論」です。
常に引っ張られすぎていると短い時間でダメになる。

パンツのゴムひもは伸びれば元には戻りませんが、人間は再生ができる素晴らしい存在です。

「いっぱいいっぱい」という言葉がありますが、いまこどもたちは「常時」そういう状態に置かれているのだということを私たち大人は知らなければならないと思っています。

人間には常在菌という菌が常にくっついているのはご存知でしょうか?
その菌までやっつけてしまうとどうなるか?
自分を守れなくなるんですよね。
健康に生きてゆくには肌にもおなかにもそういう存在が必要です。

今の日本はその辺がちょっと異常なくらいで、気をつけた方がいいと思います。
共生、協働が大切だということを大人がもう一度確認した方がいいと私は思っています。

シャンプーのしすぎで禿げる。
洗いすぎてかえって危ない菌に負ける。
あまりにも守られすぎて抵抗力が作られないまま大きくなると、
たとえばおたふくかぜのように重大な結果になってしまうようなことが他にもあります。
なんでもほどほどがいいのでしょうね。

しかし何らかの要因で一方に激しく偏った場合その対応も並々でない。神経症の場合も、山ほどの安心、安全がいるのだと思います。
それをどう供給するかのスキルが必要になるのだと私は思っています。

免疫療法のようなやりかたももちろんあります。
しかしそれも、誰にでも通用するというわけではないということを私たちは知らなければなりません。

いろいろな対応法、そのどれが、一人違うそれぞれの人にいいのか?決めつけないで対応することが大切だと私は思っています。
2009/06/23のBlog
[ 19:12 ] [ 強迫神経症 ]
こういう状態になる子はもともときっちりした性格が多いので、その根本的性格は変わりません。

きっちりした性格って実は仕事上などでは重要な「いい性格」ですよね。

その性格を生かせる仕事があればそっちに一生懸命になることで、他のことは手抜きになって丁度よくなることもあります。

あまり悪い方にだけは取らないでほしいと思います。
私は時々、おおざっぱな私に、その性格、分けられるなら分けて欲しいと思ったり。(恥)

「服を再々着替えて着替えがなくなって困る」という相談に対して、Tシャツや中パンなどの安いのでよければ山ほど買って「いくら着替えても安心よ!」とやってみては?といったことがあります。
改善しました。

「共有のパソコンを人が触ると怒るので困る」という相談に「他の人が使う時にラップをかけて使えば良いのでは?それでいいか聞いてみてください」といったら、話がまとまって、結局だんだん固執がなくなった例もあります。

否定からは何も生まれない、その子の気持ちを尊重した上で、お互いが共生できる道を話し合うことが大切なのだと思います。

やっている本人が一番しんどいのです。
それでもそうならざるを得ないということを理解してあげて欲しいと思います。

洗いすぎで手が荒れるなら、あまりきつくない石鹸に変えるとか、ハンドクリームを「洗うのは反対しないからこれを使って、大切なあなたの体が悪くなるのは私がつらいから」と伝えて使うように説得するとか。

その子が動物が好きで無理して飼い始めたら治った例もあります。

小学1年生の女の子が「一日に何十回も手を洗ってしまう。お母さんが病気だというし、しんどいしどうしたら」という電話を本人から受けたこともあります。

いろいろ話を聞くと、本人はとても良い子なんですが、席のとなりの男の子がやんちゃな子で、年配の女性担任がかなりその子に対し「かなりな指導(体罰、大声、机を叩くなど)」をするらしい。それを見ている子が強迫神経症になっている。

正直怖いんですよね。
自分もいつそういう目にあうか不安で不安で。
本当にかわいそうです。

今、こういう例がかなり多いのです。
結果、不登校になる子もいます。
本人にはまったく「責任」も「原因」もありません。
なのに…。

親御さんには原因と思えることをお話し、
担任に改善をお願いすべきであることを伝え、
本人に対しては、それまで親がやっていた、余計不安になる「病気」などという言葉や叱責はしないようにお願いし、カウンセリングの必要性があると私が思っていることをお伝えしました。

匿名の電話だったのでその後はわかりません。
元気になってくれていたら嬉しいな!
2009/06/22のBlog
[ 14:06 ] [ 強迫神経症 ]
まずは周囲が「否定する」ことをしないことが大切です。
そういう状態になってしまう何かの要因があるわけですから、それを取り除くことができればいいわけですが、本人にもわからないことも多いですし、そのことだけに囚われるのも無意味だと私は思っています。
原因がわからなくても結果は出せると思っています。

頻繁な手洗い、手洗い後、水道の蛇口を触れないから出しっぱなしになる、というような場合「水道代がもったいない」などと怒っていませんか?
これは本人にとっては「あなたよりお金が大切」に聞こえます。
自己肯定感を何らかの原因で見失っている状態の子には当然マイナスですよね。

水道代を減らしたいのなら見ている自分が締めればいいだけ。
本人がたとえばティシュやタオルでカバーして締めることができるのなら、それもいいと思いますし、同時に「いい手考えたじゃん!」と褒めても良いくらいに私は思います。

人格障害などで周囲を困らせるためにしている場合は対応法はまったく別ですので間違わないでくださいね。