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2022/09/30のBlog
[ 08:12 ]
[ 川西断酒会総合案内 ]
2022/09/29のBlog
[ 21:50 ]
[ 断酒例会の開催案内 ]
川西市総合センター冷暖房工事の為、休館
角田久美子さんデザイン(酒害者の子供さん)
2月29日(水)までは、ふれあいプラザ4階に、変わります。</b>
1月25日(水)19:00~20:45
2月1日(水) 19:00~20:45
2月8日(水) 19:00~20:45 別室にて家族会
2月15日(水)19:00~20:45
2月22日(水)19:00~20:45
2月29日(水)19:00~20;45
場所:川西市火打1-12-11 072-759-9980
川西市市役所通 北市民プール手前
阪急川西能勢口駅から900m
3月7日(水)から川西市総合センターへ会場変わります。
3月7日(水) 19:00~20:45
3月14日(水)19:00~20:45 別室にて家族会
3月21日(水)19:00~20:45
3月28日(水)19:00~20:45
〒666-0032 川西市日高町1番2号
072-758-8398
ふれあいプラザ川西市総合センター案内図 PDFにて、プリント閲覧できます。
角田久美子さんデザイン(酒害者の子供さん)
2月29日(水)までは、ふれあいプラザ4階に、変わります。</b>
1月25日(水)19:00~20:45
2月1日(水) 19:00~20:45
2月8日(水) 19:00~20:45 別室にて家族会
2月15日(水)19:00~20:45
2月22日(水)19:00~20:45
2月29日(水)19:00~20;45
場所:川西市火打1-12-11 072-759-9980
川西市市役所通 北市民プール手前
阪急川西能勢口駅から900m
3月7日(水)から川西市総合センターへ会場変わります。
3月7日(水) 19:00~20:45
3月14日(水)19:00~20:45 別室にて家族会
3月21日(水)19:00~20:45
3月28日(水)19:00~20:45
〒666-0032 川西市日高町1番2号
072-758-8398
ふれあいプラザ川西市総合センター案内図 PDFにて、プリント閲覧できます。

2022/09/26のBlog
[ 14:06 ]
[ 川西断酒会総合案内 ]
★酒をやめたい やめてほしい
★酒害に悩み 苦しんでいる本人と家族の方へ
(写真は川西市総合センター正面の全景)------>
●とにかく例会場へお越しください アルコール依存症は必ず克服できると信じてください 断酒のきっかけが きっと見つかるはずです
●初めて例会場を訪ねるのに 私たちも迷いに迷って 迷った末に やっとの思いで会場の敷居を越えてきました
●例会場での発言や体験談は 決して会場の外には持ち出さない この約束は会員全員が守っています 安心してお越しください お待ちしております
『例会場案内』
開催時間はいずれも 午後7時-8時45分
◆川西市総合センターH23.12.1-H24.2.29、館内工事の為休館になります。
:毎週水曜日(祝日の場合は翌木曜日)
川西市日高町1-2(協立病院前):JR川西池田駅北へ徒歩8分、阪急宝塚線川西能勢口駅北徒歩5分
◆ふれあいプラザー4階会場が、H23.12.1-H24.2.29 水曜日会場に変わります。
場所:川西市火打1-12-11 072-759-9980
川西市市役所通 北市民プール手前
阪急川西能勢口駅から900m
12月7日(水)~2月29日(水)は、ふれあいプラザ4階に、変わります。
12月 7日(水)19:00~20:45
12月14日(水)19:00~20:45
12月21日(水)19:00~20:45
12月27日(火)19:00~20:45 (火曜日です)(28日は、夜間休館の為)
◆川西市北陵行政センター(北陵公民館):毎月第1土曜日と第3土曜日
川西市丸山台1-5-2:能勢電鉄日生中央駅北東徒歩10分
◆猪名川町社会福祉会館:毎月第2、第4、第5土曜日
川辺郡猪名川町紫合字火燈山8:阪急バス 紫合(ユウダ)下車徒歩15分
◆『家族例会』 H23.12.1-H24.2.9は、ふれあいプラザー4Fに変わります。
川西市総合センター2階:毎月第2水曜日(祝日の場合は翌木曜日)
◆問い合わせ先(事務局) 馬場省三
℡・FAX:072-776-1581 ・Eメール:baeso602@jttk.zaq.ne.jp
携 帯:090-9997-4901 ・携帯メール:v27e6698f59z7@k.vodafone.ne.jp
ふれあいプラザー地図は、最初タイトル内PDFにて閲覧プリントできます。
他の案内図は下記、PDFにて閲覧プリントできます。
★酒害に悩み 苦しんでいる本人と家族の方へ
(写真は川西市総合センター正面の全景)------>
●とにかく例会場へお越しください アルコール依存症は必ず克服できると信じてください 断酒のきっかけが きっと見つかるはずです
●初めて例会場を訪ねるのに 私たちも迷いに迷って 迷った末に やっとの思いで会場の敷居を越えてきました
●例会場での発言や体験談は 決して会場の外には持ち出さない この約束は会員全員が守っています 安心してお越しください お待ちしております
『例会場案内』
開催時間はいずれも 午後7時-8時45分
◆川西市総合センターH23.12.1-H24.2.29、館内工事の為休館になります。
:毎週水曜日(祝日の場合は翌木曜日)
川西市日高町1-2(協立病院前):JR川西池田駅北へ徒歩8分、阪急宝塚線川西能勢口駅北徒歩5分
◆ふれあいプラザー4階会場が、H23.12.1-H24.2.29 水曜日会場に変わります。
場所:川西市火打1-12-11 072-759-9980
川西市市役所通 北市民プール手前
阪急川西能勢口駅から900m
12月7日(水)~2月29日(水)は、ふれあいプラザ4階に、変わります。
12月 7日(水)19:00~20:45
12月14日(水)19:00~20:45
12月21日(水)19:00~20:45
12月27日(火)19:00~20:45 (火曜日です)(28日は、夜間休館の為)
◆川西市北陵行政センター(北陵公民館):毎月第1土曜日と第3土曜日
川西市丸山台1-5-2:能勢電鉄日生中央駅北東徒歩10分
◆猪名川町社会福祉会館:毎月第2、第4、第5土曜日
川辺郡猪名川町紫合字火燈山8:阪急バス 紫合(ユウダ)下車徒歩15分
◆『家族例会』 H23.12.1-H24.2.9は、ふれあいプラザー4Fに変わります。
川西市総合センター2階:毎月第2水曜日(祝日の場合は翌木曜日)
◆問い合わせ先(事務局) 馬場省三
℡・FAX:072-776-1581 ・Eメール:baeso602@jttk.zaq.ne.jp
携 帯:090-9997-4901 ・携帯メール:v27e6698f59z7@k.vodafone.ne.jp
ふれあいプラザー地図は、最初タイトル内PDFにて閲覧プリントできます。
他の案内図は下記、PDFにて閲覧プリントできます。
2021/04/19のBlog
[ 22:25 ]
[ 下司孝麿全断連最高顧問逝く ]
公益社団法人全日本断酒連盟広報紙 かがり火 No165 9月号転載
1968年 松村春繁生前時の、故下司孝麿院長写真ーーーーー>
酒害と向きあって60年
アルコール治療の先駆者
下司孝麿全日本断酒連盟最高顧問逝く
高知県断酒新生会 小林 哲夫
去る6月2日午前8時30分全断連最高顧問・下司孝麿先生は老衰により死去。
享年96歳で、長い長い人生の幕を安らかに閉じられました。
告別式は6月4日執リ行われましたが、 数々の要職に就かれていたため弔問客は500名を数えました。
私は断酒会に入会して45年。
この間、断酒会員の中では一番身近で先生に接していましたので、45年間の記憶を掘り起こしながら追悼の意を捧げます。
先生の思い出の中で特に印象的なことは、松村春繁初代全断連会長との信頼関係、酒害に関するあらゆる情報収集、そして酒害からの回復と奉仕のこころの関連の三点です。
先生は松村会長と出会う数年前から断酒会結成を夢見ていたようです。
禁酒同盟や外国の文献からAAの存在をすでに知っていたからです。
ご自分の依存患者の中でめぼしい人を見つけては、断酒実践と断酒会結成を働きかけていたのですが。
ことごとく失敗に終わっていました。
そんなとき南国市の内科医から松村会長のことを聞き、わざわざ松村宅まで出向き入院治療を説得しました。
人生を投げてしまっていた松村会長は先生の誠意に反応し、断酒一年半後の昭和33年11月、同じく先生の治療を受けた28歳の青年小原寿男を説得して、日本初の「酒害者による酒害者のための自助組織」である高知県断酒新生会を立ち上げました。
先生は正しく断酒会の生みの親であります。
先生は昭和34年夏、現在地で内科神経科・下司病院を開業し、翌35年松村会長を編集人とする「新聞断酒」を創刊しました。
それ以後の先生は国内外の酒害関連情報を掻き集め、一医師と一断酒会が発行する新聞とはとても信じられない、内容の充実した新聞をつくりあげました。
先生は編集部員の一人川村効子が国の事業で渡米した際、ニューヨークのAA本部と全米酒害防止協会のマーティン・マン女子の取材を依頼し、高知女子大の沢村助教授がアメリカに留学したときは、AAの12ステップの研究を依頼しました。
新聞制作の費用は勿論、全国の関係者に配布した費用も全額先生が負担されました。
「新聞断酒」の発行は酒害に悩む人たちに光明を与え、今では伝説となっている壮絶な松村会長の行脚につながり、それが断酒会の全国ネットワークである全日本断酒連盟の結成という、壮絶な夢の実現にもつながりました。
先生と松村会長は全断連の生みの親であります。
また、全断連結成後から半世紀、物心両面から全断連を支えてくださいましたので、育ての親の一人ともいえます。
私には忘れることができない先生の思い出がいくつもあります。
松村会長が逝去されたとき、「新聞断酒」に追悼文を書くように指示されました。
断酒会に入会してわずか三年。
先輩たちに遠慮して辞退すると「君しかいない」と言われ、「新聞断酒」の編集人の大役まで押しつけられました。
活字で残すことが私の使命と感じ以後四十数年、私はアルコール依存をテーマにした論文、エッセイ、小説等を78歳の現在まで書き続けております。
今から20年ほど前、大阪森の宮のAC概念の講演会でお会いしましたね。
驚きました。
会場は若い人ばかりで、還暦を過ぎたばかりの私と80歳が近い先生の二人は異色でした。
しかもその二人の講演終了後、相次いで演者に質問するのですから、会場の若い人たちは奇異の目を私たちに向けました。
先生のモットーは「分からないことは調べる、聞く」で。私も同じですので少しも恥ずかしくありませんでした。
あの日の会場の情景と窓の外を吹いていた初夏の爽やかな風を、私は死ぬまで忘れないでしょう。
先生は死ぬ前日の6月1日、紙に「白衣を着たい」と書いて、診療着を着ようとされたそうですね。最後の最後まで酒害と向き合っていたのですね。正に「死して後止む」でした。60年に渉る酒害と向き合った日々、これからはどうか安らかにお眠りください。
合掌
上記閲覧プリントを、PDFにてできます。
1968年 松村春繁生前時の、故下司孝麿院長写真ーーーーー>
酒害と向きあって60年
アルコール治療の先駆者
下司孝麿全日本断酒連盟最高顧問逝く
高知県断酒新生会 小林 哲夫
去る6月2日午前8時30分全断連最高顧問・下司孝麿先生は老衰により死去。
享年96歳で、長い長い人生の幕を安らかに閉じられました。
告別式は6月4日執リ行われましたが、 数々の要職に就かれていたため弔問客は500名を数えました。
私は断酒会に入会して45年。
この間、断酒会員の中では一番身近で先生に接していましたので、45年間の記憶を掘り起こしながら追悼の意を捧げます。
先生の思い出の中で特に印象的なことは、松村春繁初代全断連会長との信頼関係、酒害に関するあらゆる情報収集、そして酒害からの回復と奉仕のこころの関連の三点です。
先生は松村会長と出会う数年前から断酒会結成を夢見ていたようです。
禁酒同盟や外国の文献からAAの存在をすでに知っていたからです。
ご自分の依存患者の中でめぼしい人を見つけては、断酒実践と断酒会結成を働きかけていたのですが。
ことごとく失敗に終わっていました。
そんなとき南国市の内科医から松村会長のことを聞き、わざわざ松村宅まで出向き入院治療を説得しました。
人生を投げてしまっていた松村会長は先生の誠意に反応し、断酒一年半後の昭和33年11月、同じく先生の治療を受けた28歳の青年小原寿男を説得して、日本初の「酒害者による酒害者のための自助組織」である高知県断酒新生会を立ち上げました。
先生は正しく断酒会の生みの親であります。
先生は昭和34年夏、現在地で内科神経科・下司病院を開業し、翌35年松村会長を編集人とする「新聞断酒」を創刊しました。
それ以後の先生は国内外の酒害関連情報を掻き集め、一医師と一断酒会が発行する新聞とはとても信じられない、内容の充実した新聞をつくりあげました。
先生は編集部員の一人川村効子が国の事業で渡米した際、ニューヨークのAA本部と全米酒害防止協会のマーティン・マン女子の取材を依頼し、高知女子大の沢村助教授がアメリカに留学したときは、AAの12ステップの研究を依頼しました。
新聞制作の費用は勿論、全国の関係者に配布した費用も全額先生が負担されました。
「新聞断酒」の発行は酒害に悩む人たちに光明を与え、今では伝説となっている壮絶な松村会長の行脚につながり、それが断酒会の全国ネットワークである全日本断酒連盟の結成という、壮絶な夢の実現にもつながりました。
先生と松村会長は全断連の生みの親であります。
また、全断連結成後から半世紀、物心両面から全断連を支えてくださいましたので、育ての親の一人ともいえます。
私には忘れることができない先生の思い出がいくつもあります。
松村会長が逝去されたとき、「新聞断酒」に追悼文を書くように指示されました。
断酒会に入会してわずか三年。
先輩たちに遠慮して辞退すると「君しかいない」と言われ、「新聞断酒」の編集人の大役まで押しつけられました。
活字で残すことが私の使命と感じ以後四十数年、私はアルコール依存をテーマにした論文、エッセイ、小説等を78歳の現在まで書き続けております。
今から20年ほど前、大阪森の宮のAC概念の講演会でお会いしましたね。
驚きました。
会場は若い人ばかりで、還暦を過ぎたばかりの私と80歳が近い先生の二人は異色でした。
しかもその二人の講演終了後、相次いで演者に質問するのですから、会場の若い人たちは奇異の目を私たちに向けました。
先生のモットーは「分からないことは調べる、聞く」で。私も同じですので少しも恥ずかしくありませんでした。
あの日の会場の情景と窓の外を吹いていた初夏の爽やかな風を、私は死ぬまで忘れないでしょう。
先生は死ぬ前日の6月1日、紙に「白衣を着たい」と書いて、診療着を着ようとされたそうですね。最後の最後まで酒害と向き合っていたのですね。正に「死して後止む」でした。60年に渉る酒害と向き合った日々、これからはどうか安らかにお眠りください。
合掌
上記閲覧プリントを、PDFにてできます。
2021/04/18のBlog
[ 22:47 ]
[ 小杉好弘先生を悼む下司孝麿 ]
2021/04/17のBlog
[ 23:05 ]
[ 松村春繁を語る断酒会と私下司孝麿 ]
写真--- .松村春繁全断連初代会長
( 現在下司病院下司孝之理事長様から、レジメをいただき
ご案内させていただき小杉好弘院長並びに下司孝麿理事長様に、
謹んでご冥福を心より お悔やみ申し上げます。)
小杉クリニック開院20周年記念講演 2001/08/18 テーマ・原点
断酒会と私~松村春繁を語る~アルコール医療半世紀を回顧する
全日本断酒連盟 最高顧問 下司孝麿
1、生い立ちで学んだもの
祖父が村長をしていた家が没落、父を早く失いました。小学ではずっと級長をし、
卒業式では答辞を述べました。だが中学ではおとなしすぎ、頼りないと思われ級長に
なれませんでした。大学まで虚弱体質でしたが、母が教育熱心な教育者で、奨学金を
受けながら進学、教育の大切さを学びました。
2、学問からなにを学んだか
大学では精神科教室と生理学教室で学びました。 生理学教室では「何にでも立ち
向かう姿勢」を学び、研究方法も独自に考え、特に基礎研究の大切さを学びました。
後に生理学で習ったソ連パブロフの条件反射を応用して、慢性酒精中毒症の治療を
しようと考えるに至りました。
3、1950年、何故アルコール依存症治療をしようと思ったのか
高知にはアルコール依存症者がいたからです。
1958年に断酒講演会出席を呼び掛けた私の患者は250名と、少なくない状況でした。
4、どのような治療環境か
私は県下最大400床の精神病院院長であると同時に一般病院の町田病院精神科医長
であり、県内唯一の精神科外来で患者の診療にあたっていました。
両病院を経営する町田尚直院長は文化人で、新聞記者等がよく来て、「町田文化」
と言われていました。院長室へは日本一流のピアニスト、ヴァイオリニスト、歌人、
俳人、画家等が訪れていました。
院長室の前が精神科の診察室で私は新しい医療情報を話し、新聞にもよく紹介され記者達とも親しくしました。新聞やNHK等マスコミの力は大きかった。
・ アルコール治療は精神病院で始まったものではないこと。
・ 戦後初期マスコミの威力に遭遇した。報道され1950年11月から11ヶ月間に全国から
問い合わせがあったアルコール患者は788名。内エメチン療法は343名でした。
・ 病院を大きくすることは精華園で経験済みなので興味がなくアルコール依存症治療に
情熱を注いだ。
5、エメチン療法との出会いは
昭和25年、塩野義製薬系のPR誌モダンテラピーでアルコール依存症の薬物療法を読みました。 4種の薬の中から2つを選んだ。記者に勧められてエメチン療法を新聞に書いたところ、早く実施をと、けしかけられて開始しました。
進駐軍放出物資の中にエメチン内服薬があり用いました。アンタビュースは構造式を見て、メーカーに合成してもらいました。
1950年に高知県医師会と愛媛での学会で、1951年には東京慈恵医科大学で開催された日本精神神経学会で発表をしました。その抄録にエメチンに精神療法を加味をせねばならないと指摘しています。この見解は日本で始めてでした。二代目の大野全断連理事長・叙勲祝いの時、東大の逸見元教授から「我々は薬物療法だけを考えていたが、断酒会はいい発想だ」とほめられました。
6、エメチンは条件反射なのか
生理学で習ったパブロフの条件反射を応用して、治療をしようと考えました。自分で治療法を考え、外国の文献を読んで始めました。
エメチン(マレーシアの方で採れる吐根の吐剤、アメーバ赤痢に効く、または鎮咳剤)を酒に入れて吐かす方法は嘔吐する条件反射であることと判断、早速に試みました。
7、アルコールの治療はあったのか
アルコール依存症については日本では精神科医は治療をしていませんでした。当時、名古屋大学精神科杉田教授は悪性な遺伝病として優生学上子供を造ってはいけないから種を断つ、つまり「断種せよ」と論文に書いていました。勿論、アルコール依存症の治療は当時ありませんでした。
・ 精神科の外来すら大学病院以外には殆どない時代だった。
8、指導者や教科書はあったのか。
指導者も教科書もない時代です。自分で外国の文献を読み手探りで治療法を考えました。
9、仲間はいたのか
中澤、澤村、秦泉寺など医師以外の人たち。
中澤薬業の中澤社長は禁酒運動の熱心な推進者で禁酒新聞を頂いたので、断酒会の事が分かり、東京へ度々行った。
高知大学の澤村先生には翻訳と、アメリカ留学時にAAを見学して報告してもらった。高知大の秦泉寺先生を引き入れ全断連バッジや断酒の歌を作ってもらいました。
片山哲(元総理大臣・社会党、禁酒同盟理事長)、小塩氏(禁酒同盟専務)も酒害講演に中澤さんが呼んでくれました。
10、どうしてアルコール医療に辿り着き、エメチン療法だけではなく集団精神療法を加味する発想がうまれるのか、
エメチン療法をしていて臨床結果から、精神療法の必要性を悟りました。
1951年の日本精神神経学会で発表しました。(抄録に記載されている)
その後、日本に紹介されたばかりの集団精神療法を国立名古屋大学精神科で学び町田病院で実施していました。見学をした東京の断酒会は一種の集団精神療法とわかり自信を得て1958年に断酒会を始めました。
11、模倣と独創、アメリカ医療にふれたことと日本的な断酒会の会長制、会計、名前公開にいたった考え方を聞きたい
東京断酒新生会方式を採用しました。日本の地方では匿名はなじまない、全て日本流だ。 1957年、アメリカに出かけて精神医療をつぶさにみてきたのも断酒会の設立へのヒントとなりました。
12、断酒会との初期は
毎日、松村さんと診療前に30分も話し込んで飽きることなく相談をしました。待
ち合い室に溢れる大勢の外来患者を待たして婦長に怒られた。その様子を勤務してい
た洲脇先生がみていた。(現香川医大教授、日本アルコール・薬物医学会理事長、日
本アルコール精神医学会理事長)
「酒害者民主主義」、「断酒鉄言」などはこのような話し合いや体験から産み出さ
れていきました。
・断酒会は医療も行政の取り組みも皆無の時に誕生
13、断酒会では対等か
そうです、初心者から学ぶ姿勢が大事だ。組織運営は縦型でも例会運営はよこよこ
を心掛けるべきです。
14、断酒会が医療よりも先行したのか
そうです。患者は断酒会に紹介し、約10年間は断酒会一辺倒でした。その有効性
を確信してからは、医学的治療にも力を入れるようになりました。
15、松村春繁の人となりは
労働運動の闘士で高知県ナンバー2でした。戦後高知市長になった氏原一郎と共に
投獄された人、「ゴネ松」と言われ経営者には恐れられていました。私の知る松村さ
んは、誠実で情熱家。私とは強い信頼の絆で結ばれていました。
16、断酒会リーダーとしての評価は
自分をとことん分析した人。なだいなだの本にすごいアル中と評されました。
労働運動で培われたオルガナイザーとしての指導力は抜群。命をかけて断酒運動に
没頭しました。
17、 多くの断酒会を作ろうとする試みがあったのに、何故松村は成功したか
松村氏の情熱に共鳴する同志が沢山いて、支部結成家族会や子供会も造った。街頭運
動その他、色々な企画をして報道された。医療との連係を強調して「下司構想」と言
い出したが私が差し止めました。
18、奥さんの協力は
一年経っても出席者は会員が数名のみで、2年経っても会が低迷していました。
松村さんが「就職したい」と言いましたら奥さんは「止めるのが貴方の仕事、生活費
は私が働く」と言いました。
19、医療との連係
アルコール医療は自己完結しない医療なのです。断酒会との連係は必要です。
20、断酒会の今後は
断酒会孤立主義(モンロー主義)ではだめです。高知アル研を立ち上げた時は酒販
組合理事長、裁判所長等幅広く顧問に迎え社会の理解を得ようとした。
我々医療の側も断酒会に対してパターナリズムpaternalism (恩情主義、家父長主義)ではだめです。過保護、支配的では断酒会は伸びない。
・ 私は医療と断酒会は対等の立場であると言ってきた。
・ 昭和38年、全日本断酒連盟の発会式で私はリンカーンの言葉から酒害者民主主義「酒害者の酒害者による酒害者の為の断酒会」を提起した。
21、何故、今「原点」か
急速に医療で全てをカバーできなくなっている社会的変化があること。止める心は本人の努力の積み重ねであるとの再認識が必要です。
自らの自助力に自信を!
会が効率良く酒害に対応出来る組織を!
感激のない会は駄目、その為の工夫を!
現在、利己主義の傾向が強く、匿名の傾向もあります。自分を裸にして世間に訴える勇気がないのです。
WHOはspirituality (霊性)という。
私は「只管断酒、例会入魂」(ひたすら断酒、霊性獲得)を提唱する。
アメリカのAAは匿名というが、ベテイ・フォードセンター、ヒューズ法等、全て酒害者名で造っているのでAAの匿名性には抵抗を感じます。
AAは神と言うがスポーツと同じく訓練の詰み重ねによる脳回路形成で酒は止まると思います。
〒780-0870 高知市本町三丁目5番13号 下司病院
℡(088)823ー3 2 5 7
高知アルコール問題研究所 下司孝麿 所長
下司病院 http://www.kochi-al.org/url/geshi-top.html
高知アルコール問題研究所 http://www.kochi-al.org
( 現在下司病院下司孝之理事長様から、レジメをいただき
ご案内させていただき小杉好弘院長並びに下司孝麿理事長様に、
謹んでご冥福を心より お悔やみ申し上げます。)
小杉クリニック開院20周年記念講演 2001/08/18 テーマ・原点
断酒会と私~松村春繁を語る~アルコール医療半世紀を回顧する
全日本断酒連盟 最高顧問 下司孝麿
1、生い立ちで学んだもの
祖父が村長をしていた家が没落、父を早く失いました。小学ではずっと級長をし、
卒業式では答辞を述べました。だが中学ではおとなしすぎ、頼りないと思われ級長に
なれませんでした。大学まで虚弱体質でしたが、母が教育熱心な教育者で、奨学金を
受けながら進学、教育の大切さを学びました。
2、学問からなにを学んだか
大学では精神科教室と生理学教室で学びました。 生理学教室では「何にでも立ち
向かう姿勢」を学び、研究方法も独自に考え、特に基礎研究の大切さを学びました。
後に生理学で習ったソ連パブロフの条件反射を応用して、慢性酒精中毒症の治療を
しようと考えるに至りました。
3、1950年、何故アルコール依存症治療をしようと思ったのか
高知にはアルコール依存症者がいたからです。
1958年に断酒講演会出席を呼び掛けた私の患者は250名と、少なくない状況でした。
4、どのような治療環境か
私は県下最大400床の精神病院院長であると同時に一般病院の町田病院精神科医長
であり、県内唯一の精神科外来で患者の診療にあたっていました。
両病院を経営する町田尚直院長は文化人で、新聞記者等がよく来て、「町田文化」
と言われていました。院長室へは日本一流のピアニスト、ヴァイオリニスト、歌人、
俳人、画家等が訪れていました。
院長室の前が精神科の診察室で私は新しい医療情報を話し、新聞にもよく紹介され記者達とも親しくしました。新聞やNHK等マスコミの力は大きかった。
・ アルコール治療は精神病院で始まったものではないこと。
・ 戦後初期マスコミの威力に遭遇した。報道され1950年11月から11ヶ月間に全国から
問い合わせがあったアルコール患者は788名。内エメチン療法は343名でした。
・ 病院を大きくすることは精華園で経験済みなので興味がなくアルコール依存症治療に
情熱を注いだ。
5、エメチン療法との出会いは
昭和25年、塩野義製薬系のPR誌モダンテラピーでアルコール依存症の薬物療法を読みました。 4種の薬の中から2つを選んだ。記者に勧められてエメチン療法を新聞に書いたところ、早く実施をと、けしかけられて開始しました。
進駐軍放出物資の中にエメチン内服薬があり用いました。アンタビュースは構造式を見て、メーカーに合成してもらいました。
1950年に高知県医師会と愛媛での学会で、1951年には東京慈恵医科大学で開催された日本精神神経学会で発表をしました。その抄録にエメチンに精神療法を加味をせねばならないと指摘しています。この見解は日本で始めてでした。二代目の大野全断連理事長・叙勲祝いの時、東大の逸見元教授から「我々は薬物療法だけを考えていたが、断酒会はいい発想だ」とほめられました。
6、エメチンは条件反射なのか
生理学で習ったパブロフの条件反射を応用して、治療をしようと考えました。自分で治療法を考え、外国の文献を読んで始めました。
エメチン(マレーシアの方で採れる吐根の吐剤、アメーバ赤痢に効く、または鎮咳剤)を酒に入れて吐かす方法は嘔吐する条件反射であることと判断、早速に試みました。
7、アルコールの治療はあったのか
アルコール依存症については日本では精神科医は治療をしていませんでした。当時、名古屋大学精神科杉田教授は悪性な遺伝病として優生学上子供を造ってはいけないから種を断つ、つまり「断種せよ」と論文に書いていました。勿論、アルコール依存症の治療は当時ありませんでした。
・ 精神科の外来すら大学病院以外には殆どない時代だった。
8、指導者や教科書はあったのか。
指導者も教科書もない時代です。自分で外国の文献を読み手探りで治療法を考えました。
9、仲間はいたのか
中澤、澤村、秦泉寺など医師以外の人たち。
中澤薬業の中澤社長は禁酒運動の熱心な推進者で禁酒新聞を頂いたので、断酒会の事が分かり、東京へ度々行った。
高知大学の澤村先生には翻訳と、アメリカ留学時にAAを見学して報告してもらった。高知大の秦泉寺先生を引き入れ全断連バッジや断酒の歌を作ってもらいました。
片山哲(元総理大臣・社会党、禁酒同盟理事長)、小塩氏(禁酒同盟専務)も酒害講演に中澤さんが呼んでくれました。
10、どうしてアルコール医療に辿り着き、エメチン療法だけではなく集団精神療法を加味する発想がうまれるのか、
エメチン療法をしていて臨床結果から、精神療法の必要性を悟りました。
1951年の日本精神神経学会で発表しました。(抄録に記載されている)
その後、日本に紹介されたばかりの集団精神療法を国立名古屋大学精神科で学び町田病院で実施していました。見学をした東京の断酒会は一種の集団精神療法とわかり自信を得て1958年に断酒会を始めました。
11、模倣と独創、アメリカ医療にふれたことと日本的な断酒会の会長制、会計、名前公開にいたった考え方を聞きたい
東京断酒新生会方式を採用しました。日本の地方では匿名はなじまない、全て日本流だ。 1957年、アメリカに出かけて精神医療をつぶさにみてきたのも断酒会の設立へのヒントとなりました。
12、断酒会との初期は
毎日、松村さんと診療前に30分も話し込んで飽きることなく相談をしました。待
ち合い室に溢れる大勢の外来患者を待たして婦長に怒られた。その様子を勤務してい
た洲脇先生がみていた。(現香川医大教授、日本アルコール・薬物医学会理事長、日
本アルコール精神医学会理事長)
「酒害者民主主義」、「断酒鉄言」などはこのような話し合いや体験から産み出さ
れていきました。
・断酒会は医療も行政の取り組みも皆無の時に誕生
13、断酒会では対等か
そうです、初心者から学ぶ姿勢が大事だ。組織運営は縦型でも例会運営はよこよこ
を心掛けるべきです。
14、断酒会が医療よりも先行したのか
そうです。患者は断酒会に紹介し、約10年間は断酒会一辺倒でした。その有効性
を確信してからは、医学的治療にも力を入れるようになりました。
15、松村春繁の人となりは
労働運動の闘士で高知県ナンバー2でした。戦後高知市長になった氏原一郎と共に
投獄された人、「ゴネ松」と言われ経営者には恐れられていました。私の知る松村さ
んは、誠実で情熱家。私とは強い信頼の絆で結ばれていました。
16、断酒会リーダーとしての評価は
自分をとことん分析した人。なだいなだの本にすごいアル中と評されました。
労働運動で培われたオルガナイザーとしての指導力は抜群。命をかけて断酒運動に
没頭しました。
17、 多くの断酒会を作ろうとする試みがあったのに、何故松村は成功したか
松村氏の情熱に共鳴する同志が沢山いて、支部結成家族会や子供会も造った。街頭運
動その他、色々な企画をして報道された。医療との連係を強調して「下司構想」と言
い出したが私が差し止めました。
18、奥さんの協力は
一年経っても出席者は会員が数名のみで、2年経っても会が低迷していました。
松村さんが「就職したい」と言いましたら奥さんは「止めるのが貴方の仕事、生活費
は私が働く」と言いました。
19、医療との連係
アルコール医療は自己完結しない医療なのです。断酒会との連係は必要です。
20、断酒会の今後は
断酒会孤立主義(モンロー主義)ではだめです。高知アル研を立ち上げた時は酒販
組合理事長、裁判所長等幅広く顧問に迎え社会の理解を得ようとした。
我々医療の側も断酒会に対してパターナリズムpaternalism (恩情主義、家父長主義)ではだめです。過保護、支配的では断酒会は伸びない。
・ 私は医療と断酒会は対等の立場であると言ってきた。
・ 昭和38年、全日本断酒連盟の発会式で私はリンカーンの言葉から酒害者民主主義「酒害者の酒害者による酒害者の為の断酒会」を提起した。
21、何故、今「原点」か
急速に医療で全てをカバーできなくなっている社会的変化があること。止める心は本人の努力の積み重ねであるとの再認識が必要です。
自らの自助力に自信を!
会が効率良く酒害に対応出来る組織を!
感激のない会は駄目、その為の工夫を!
現在、利己主義の傾向が強く、匿名の傾向もあります。自分を裸にして世間に訴える勇気がないのです。
WHOはspirituality (霊性)という。
私は「只管断酒、例会入魂」(ひたすら断酒、霊性獲得)を提唱する。
アメリカのAAは匿名というが、ベテイ・フォードセンター、ヒューズ法等、全て酒害者名で造っているのでAAの匿名性には抵抗を感じます。
AAは神と言うがスポーツと同じく訓練の詰み重ねによる脳回路形成で酒は止まると思います。
〒780-0870 高知市本町三丁目5番13号 下司病院
℡(088)823ー3 2 5 7
高知アルコール問題研究所 下司孝麿 所長
下司病院 http://www.kochi-al.org/url/geshi-top.html
高知アルコール問題研究所 http://www.kochi-al.org
2013/11/20のBlog
[ 00:14 ]
[ 本人の体験談 ]
断酒一年を振り返り
和歌山市断酒会友綱 橋口孝一
昨年のちょうど今頃、兵庫県川西断酒会の皆様のご好意により体験談の投稿という機会を与えていただけました。
本当にありがとうございました。
一年後、またこのような機会をいただきましてありがたく思います。
断酒会に入会して一年が経ち、県外研修なども一巡して昨年行かせて頂いた地を訪れると一年間の自分自身の変化を感じることができ、嬉しく思うことが数多くあります。
断酒会に入会させていただいて良かったと幸せに感じる一瞬です。
家族への償い。
家内や娘のことを考えた時、同時に父の酒に想いが向っていきます。
殴られた母の腫れあがった顔が思い浮かび、今も冷静な気持ちを保つことの困難さを感じます。
私が中学二年生のとき、父に愛人ができました。
毎夜愛人が家にやってきて、母の手料理が振舞われる。
父と愛人の宴に母が酌をする。
ひとしきり食べて飲んだ後、二人はご機嫌になり何処へともなく消えていく。
毎晩繰り返されたそうです。
私は塾通いで知らなかったのですが、ある日妹から聞きました。
許せないと思い父に抗議をしました。
当時私の家には木刀がありました。
酔っている父は木刀で私に殴りかかりました。
寸前、母が私の盾になってくれたのですが、木刀は母の頭に当たり血飛沫が上がりました。
母は「きゅーん」という声を発し倒れました。
今もその「きゅーん」という動物が絞められたような声が耳にこびりついて離れません。
私はすぐに救急車を呼んで欲しい、母が死んでしまうと父に頼んだのですが、呼んでくれませんでした。
「格好が悪い、呼べるか」父はそう言って自分で飲酒運転をして母を病院に連れて行きました。
病院では階段から落ちたと言ったそうですが、そんなはずはない、とお医者さんに叱られたそうです。
物心ついた頃から父は怖い存在でした。
同時に母や祖父母、叔父や叔母には「お父さんは偉い人、立派な人」そう言われ続けてきましたが、私には理解することができませんでした。
父には私の気持ちがある程度は分かっていたのだとは思います。
父なりに努力はしてくれていましたが、私は怖くて、苦しくて逃げていましたから、父は余計に焦っていたのではないかと思います。
父がもし本当に愛情のない人だったら私はもっと楽だったのかもしれませんが、飲んでいないときに見せる父の愛情には応えたいという気持ちがありました。
中二当時のこの一件があってから私は迷いなく父を憎むようになりました。
「殺してやる」何度も思いました。
父に「誰のおかげで飯が食えるとおもってるんや」とよく言われましたが、本当に悔しくてたまりませんでした。
ですから私は酒が嫌いで、酒飲みが嫌いで、家族すら幸せにできない男は屑だと思っていました。
自分が酒を飲むなど、ましてやアル中になるなど思いもしていなかったのです。
19歳になり進路のことで父と喧嘩になり、家出をしました。
叔母に援助してもらって六畳一間のアパートを借りました。
アルバイトを終え、アパートに帰ってから飲むようになりました。
二ヶ月ほどたったころ風邪を引いて寝込んだのですが、熱が下がっても部屋から出られなくなりました。
朝も昼も夜もなく飲み続ける日が始まりました。
当然アルバイトも行けなくなり、最初は心配して来てくれていた友人たちにも愛想をつかされ、結局5ヶ月足らずで実家に戻りました。
実家に戻っても荒れ狂った生活は直らずに、部屋から出ず、朝も昼も夜もない生活は2年近く続きました。
青春期の貴重な時間を飲んだくれて棒に振ってしまいました。
やがて就職もでき、結婚し、娘も一人授かりました。
アルコールに関してはかろうじて社会生活は営めるけれども、相変わらずひどい状態でした。
家族だけは泣かせていない。
当時はそう思っていました。
いや、今思えば思い込みたかっただけでした。
娘が思春期になり口を利いてくれなくなりました。
最初は年頃の女の子だからと軽く考えていました。
やがて家内を通して聞く娘の言葉に驚きました。
「パパは自分のことしか考えていない。
自分勝手」「パパは家族の気持ちを少しも分かろうとしない」「私はパパに何一つしてもらったことがない」「お祖父ちゃんを見習って」。
かつて私が父に対して抱いていた思いと一緒。
それどころか「お祖父ちゃんを見習って」とは。
確かに私が家出をし、2年間荒れ狂ってから父は少しずつ変わっていきました。
ですから私が昔の父の話をしても、家内も娘も信じてくれませんでした。
その言葉で気づけばよかったのですが、アルコールに狂っている私は耳を傾けませんでした。
「子供には親の気持ちは分からない」自分に言い訳をしていたのです。
昨年三月私は酒が原因で会社を首になりました。三度目です。
朝から飲んだくれていました。
娘と些細なことで喧嘩になり、馬乗りになり首を絞め、殺しかけました。
ぐったりしている娘をほったらかし飲み続けました。
気がつくと病院で手術を受けていました。
川へ飛び込んだそうです。
怪我の治療のため1ヶ月入院しましたがその間に娘は家を出ました。
ついに私は全てにおいて父以上のアル中になり、最低の父親になってしまいました。
4月になり今度は新阿武山病院に入院しました。
入院中断酒会に導いていただき、高槻を始め病院から通えるたくさんの断酒会にお世話になりました。
8月になり退院し、和歌山市の断酒会に入会させていただけるようになりました。
例会や研修会でたくさんの体験談を聞かせていただき、自分は一体何をしてきたのか考える機会を与えていただきました。
また愚痴なのか、言い訳なのか分からない、そのときどきの自分の気持ちも体験談として聞いていただけました。
何処へ行っても、どなたも黙って拙い私の話を聞いてくださりました。本当にありがたく思います。
家族に償いたい。
そう思っても実際には難しいことです。
かろうじて離婚を踏みとどまってくれた家内に申し訳ないと思っても、今までの苦しみを少しでも取り除きたいと思っても、自分の考えの甘さを実感されるばかりです。
娘に償いたいと思っても、家を出て、連絡先も教えてもらえません。
当たり前です。
せめてもと思ってACのことを調べたりお話を聞かせていただくと娘への償いのつもりがいつも自分の子供のころの記憶に戻ってしまいます。
自分はどうしてアルコール依存症になったのだろうか?
体質なのだろうか?
生まれつきの性格なのだろうか?
思いましたが、生まれつきにしてしまっては母に申し訳なく思います。
父がアルコールに問題があったからだろうか?
父のせいにしてはいけません。
現に同じ親に生まれ、育った妹は酒を飲みません。
今考えているのは自分が狂っていたのは、父を殺したいほど強く憎んだからだ。
父の酒を憎んだからだ。
憎しみの気持ちが自分を父以上のアル中に、最低の父親にしてしまったのだと考えています。
「人を呪わば穴二つ」とは陰陽師から来ている言葉だそうですが、単なる戒めの諺ではないと思います。
心の法則だと思います。
目には見えない法則だと思うのです。
多くの方の体験談からそう思うようになりました。
そして解決の方法は、体験談を聞いていただき、自分を振り返る。
何度も何度も繰り返すと、自然と和解したい気持ちが生まれてくる。
思ったら実際に行動に移すことだと考えています。
娘や家内に償いをするときに、同時に父とも心の底から和解することが必要だと思っています。
家内や娘だけだと本当の意味での償いができないように思うのです。
父と和解し、心の底にある憎しみという毒を消さないと自分を許せませんし、家内や娘に対しても浅い償いしかできないのではないかと思います。
今父はすっかり弱くなり、認知症が進行しています。
現在の父を見ても、もう憎いという感情はおきません
。しかし、体験談を語るとき、記憶の中の父は今でも怖く、憎いのです。
「お父さん、あなたのおかげで生まれることができて良かったです。
育ててもらえて良かったです。
本当にありがとう」、記憶の中の、あの憎かった父に心の底から感謝できる日が来ることを信じて、きっとその日が来ると信じて、多くの方の体験談から学ばせていただきたいと思います。
断酒会に出会えてよかった。
一年前も思いましたがもっと深まりました。多くの皆様に感謝をしています。
和歌山市断酒会友綱 橋口孝一
昨年のちょうど今頃、兵庫県川西断酒会の皆様のご好意により体験談の投稿という機会を与えていただけました。
本当にありがとうございました。
一年後、またこのような機会をいただきましてありがたく思います。
断酒会に入会して一年が経ち、県外研修なども一巡して昨年行かせて頂いた地を訪れると一年間の自分自身の変化を感じることができ、嬉しく思うことが数多くあります。
断酒会に入会させていただいて良かったと幸せに感じる一瞬です。
家族への償い。
家内や娘のことを考えた時、同時に父の酒に想いが向っていきます。
殴られた母の腫れあがった顔が思い浮かび、今も冷静な気持ちを保つことの困難さを感じます。
私が中学二年生のとき、父に愛人ができました。
毎夜愛人が家にやってきて、母の手料理が振舞われる。
父と愛人の宴に母が酌をする。
ひとしきり食べて飲んだ後、二人はご機嫌になり何処へともなく消えていく。
毎晩繰り返されたそうです。
私は塾通いで知らなかったのですが、ある日妹から聞きました。
許せないと思い父に抗議をしました。
当時私の家には木刀がありました。
酔っている父は木刀で私に殴りかかりました。
寸前、母が私の盾になってくれたのですが、木刀は母の頭に当たり血飛沫が上がりました。
母は「きゅーん」という声を発し倒れました。
今もその「きゅーん」という動物が絞められたような声が耳にこびりついて離れません。
私はすぐに救急車を呼んで欲しい、母が死んでしまうと父に頼んだのですが、呼んでくれませんでした。
「格好が悪い、呼べるか」父はそう言って自分で飲酒運転をして母を病院に連れて行きました。
病院では階段から落ちたと言ったそうですが、そんなはずはない、とお医者さんに叱られたそうです。
物心ついた頃から父は怖い存在でした。
同時に母や祖父母、叔父や叔母には「お父さんは偉い人、立派な人」そう言われ続けてきましたが、私には理解することができませんでした。
父には私の気持ちがある程度は分かっていたのだとは思います。
父なりに努力はしてくれていましたが、私は怖くて、苦しくて逃げていましたから、父は余計に焦っていたのではないかと思います。
父がもし本当に愛情のない人だったら私はもっと楽だったのかもしれませんが、飲んでいないときに見せる父の愛情には応えたいという気持ちがありました。
中二当時のこの一件があってから私は迷いなく父を憎むようになりました。
「殺してやる」何度も思いました。
父に「誰のおかげで飯が食えるとおもってるんや」とよく言われましたが、本当に悔しくてたまりませんでした。
ですから私は酒が嫌いで、酒飲みが嫌いで、家族すら幸せにできない男は屑だと思っていました。
自分が酒を飲むなど、ましてやアル中になるなど思いもしていなかったのです。
19歳になり進路のことで父と喧嘩になり、家出をしました。
叔母に援助してもらって六畳一間のアパートを借りました。
アルバイトを終え、アパートに帰ってから飲むようになりました。
二ヶ月ほどたったころ風邪を引いて寝込んだのですが、熱が下がっても部屋から出られなくなりました。
朝も昼も夜もなく飲み続ける日が始まりました。
当然アルバイトも行けなくなり、最初は心配して来てくれていた友人たちにも愛想をつかされ、結局5ヶ月足らずで実家に戻りました。
実家に戻っても荒れ狂った生活は直らずに、部屋から出ず、朝も昼も夜もない生活は2年近く続きました。
青春期の貴重な時間を飲んだくれて棒に振ってしまいました。
やがて就職もでき、結婚し、娘も一人授かりました。
アルコールに関してはかろうじて社会生活は営めるけれども、相変わらずひどい状態でした。
家族だけは泣かせていない。
当時はそう思っていました。
いや、今思えば思い込みたかっただけでした。
娘が思春期になり口を利いてくれなくなりました。
最初は年頃の女の子だからと軽く考えていました。
やがて家内を通して聞く娘の言葉に驚きました。
「パパは自分のことしか考えていない。
自分勝手」「パパは家族の気持ちを少しも分かろうとしない」「私はパパに何一つしてもらったことがない」「お祖父ちゃんを見習って」。
かつて私が父に対して抱いていた思いと一緒。
それどころか「お祖父ちゃんを見習って」とは。
確かに私が家出をし、2年間荒れ狂ってから父は少しずつ変わっていきました。
ですから私が昔の父の話をしても、家内も娘も信じてくれませんでした。
その言葉で気づけばよかったのですが、アルコールに狂っている私は耳を傾けませんでした。
「子供には親の気持ちは分からない」自分に言い訳をしていたのです。
昨年三月私は酒が原因で会社を首になりました。三度目です。
朝から飲んだくれていました。
娘と些細なことで喧嘩になり、馬乗りになり首を絞め、殺しかけました。
ぐったりしている娘をほったらかし飲み続けました。
気がつくと病院で手術を受けていました。
川へ飛び込んだそうです。
怪我の治療のため1ヶ月入院しましたがその間に娘は家を出ました。
ついに私は全てにおいて父以上のアル中になり、最低の父親になってしまいました。
4月になり今度は新阿武山病院に入院しました。
入院中断酒会に導いていただき、高槻を始め病院から通えるたくさんの断酒会にお世話になりました。
8月になり退院し、和歌山市の断酒会に入会させていただけるようになりました。
例会や研修会でたくさんの体験談を聞かせていただき、自分は一体何をしてきたのか考える機会を与えていただきました。
また愚痴なのか、言い訳なのか分からない、そのときどきの自分の気持ちも体験談として聞いていただけました。
何処へ行っても、どなたも黙って拙い私の話を聞いてくださりました。本当にありがたく思います。
家族に償いたい。
そう思っても実際には難しいことです。
かろうじて離婚を踏みとどまってくれた家内に申し訳ないと思っても、今までの苦しみを少しでも取り除きたいと思っても、自分の考えの甘さを実感されるばかりです。
娘に償いたいと思っても、家を出て、連絡先も教えてもらえません。
当たり前です。
せめてもと思ってACのことを調べたりお話を聞かせていただくと娘への償いのつもりがいつも自分の子供のころの記憶に戻ってしまいます。
自分はどうしてアルコール依存症になったのだろうか?
体質なのだろうか?
生まれつきの性格なのだろうか?
思いましたが、生まれつきにしてしまっては母に申し訳なく思います。
父がアルコールに問題があったからだろうか?
父のせいにしてはいけません。
現に同じ親に生まれ、育った妹は酒を飲みません。
今考えているのは自分が狂っていたのは、父を殺したいほど強く憎んだからだ。
父の酒を憎んだからだ。
憎しみの気持ちが自分を父以上のアル中に、最低の父親にしてしまったのだと考えています。
「人を呪わば穴二つ」とは陰陽師から来ている言葉だそうですが、単なる戒めの諺ではないと思います。
心の法則だと思います。
目には見えない法則だと思うのです。
多くの方の体験談からそう思うようになりました。
そして解決の方法は、体験談を聞いていただき、自分を振り返る。
何度も何度も繰り返すと、自然と和解したい気持ちが生まれてくる。
思ったら実際に行動に移すことだと考えています。
娘や家内に償いをするときに、同時に父とも心の底から和解することが必要だと思っています。
家内や娘だけだと本当の意味での償いができないように思うのです。
父と和解し、心の底にある憎しみという毒を消さないと自分を許せませんし、家内や娘に対しても浅い償いしかできないのではないかと思います。
今父はすっかり弱くなり、認知症が進行しています。
現在の父を見ても、もう憎いという感情はおきません
。しかし、体験談を語るとき、記憶の中の父は今でも怖く、憎いのです。
「お父さん、あなたのおかげで生まれることができて良かったです。
育ててもらえて良かったです。
本当にありがとう」、記憶の中の、あの憎かった父に心の底から感謝できる日が来ることを信じて、きっとその日が来ると信じて、多くの方の体験談から学ばせていただきたいと思います。
断酒会に出会えてよかった。
一年前も思いましたがもっと深まりました。多くの皆様に感謝をしています。
2013/11/17のBlog
[ 09:31 ]
[ 本人の体験談 ]
滋賀県断酒同友会 大津支部30周年 瀬田支部4周年 記念誌 寄稿
「命の絆」 京都府断酒平安会 東江 清一
写真ーー>京花シダレヤナギ
滋賀県断酒同友会大津支部が三十周年を迎える。村田支部長はじめ支部員の皆様誠におめでとうございます。
私も断酒会を知って三十数年になります。
今私が常に心がけている事がある。
一日を笑顔で過ごす事、大切な事だと思っています。
愛宕登山の時先輩のSさんからなりげない言葉「これからはその笑顔でいこうや、貴男は笑顔が良い」と。それまでの私は断酒会の内であまり笑う事が無かったかもしれない。今思えば宝物を頂いた気持だ。
私は近江の郷大津に昭和十七年夏に生まれる。
その時分親父が蒲鉾職人として日々精いっぱい家族を守っていました。
その親父も仲々の酒飲みでした。
終戦のあおりで親父は慣れない土木業についた、長男の私を一人前の蒲鉾職人にすることが親父の夢だったと聞かされていました、その土木業の仕事で事故に遭い片足を切断する、其の後の親父は裏社会の人達都の付合いが多くなり、そのためか生活苦から一家心中するところまでおいつめられる。
見るに見かねた蒲鉾屋の親方の長男が、当時七才でガキ大将であった私を使ってくれる事になる、義務教育を受けないで世間の荒波の内に入っていった、その時分コロッケ一個三円、蒸しパン一個三円、その蒸しパンを持ち帰り家族の糧として生活をしていました。
昭和二十三年の頃である、母親が弟を身籠っていました。
今思えば学校に行かず仕事に着いた私は両親のためになった男でした。
その私を見込んだ蒲鉾屋の親方が私を奉公人としてつかってくれる事になる、もちろん学校も認めてくれました、それから私が善悪の道をさよう男になり酒も覚えバクチの使い走りをする様になる、しかし仕事だけは、一生懸命覚えた。
十七才の時親方の反対を押切って女中してた女性と結婚する、そのため蒲鉾屋を離れる事になる、昭和三十六年の事でした、昭和三十六年の事でした。
昭和三十八年九月長男出生する、一年七ヶ月トラックの運転をしながら家族を守る、その時分は何かにつけて酒を良く飲んだ、その頃の酒の飲方はましな方だった、突然私の視力が悪くなり運転手の仕事が出来なくなる、再度私は頭を下げて蒲鉾屋に戻れることになる、
その時分日本は東京オリンピックで盛り上がっていた、私が近畿代表でパラリンピックでメダルをもらうことが出来た、各方面の著名人から盛大な歓迎を受ける、その時親方が名誉な事だと私に工場長のポストを用意してくれる、
それ以後の私は有頂天のなり我を忘れ酒に溺れてゆく事になる、昭和四十ニ年長女出産、二十五才にして山科に大きな家も新築出来た、益々有頂天になり我の強い男になっていく、仕事に行き帰りに深酒する、段々と切れなくなる、妻が夜の商売に着く、酒でボケた頭で思う事は妻に対しての嫉妬妄想でした、
その後三重県に単身で責任者として仕事に行く、その仕事も酒を飲みに行った様なものだった、その時、三重の断酒会の例会をすすめられるが私自身その気にならない、三重から帰ると家族が宇治黄檗病院を用意しててくれました、
副院長の広兼明先生に主治医になってもらうが酒は止められない、受診をぬけ出して病院の側の万福寺で酒を飲んだこともある、今度は岩倉病院で杉浦先生に主治医になってもらうが酒の方は中々止められない、黄檗と岩倉の入退院のくり返しの度に、私の家族が姿をかくす様にになる、酒でボケた頭でしたので離婚されたと勘ちがいをしてたのか連続飲酒の状態で家族をうらむ事しかなかった、
私から家族が離れた後、色々な仕事に着く、時には裏組織の仕事をした事もある、酒を止める気があるはずもない。
昭和五十二年に平安会に入会はしたものの例会の帰りに飲んだ事もある。
大津支部が膳所本町に看板が出てました昭和五十五年六月の事です、支部長は川北氏でした、彼の自宅で例会が開けれていあました、そして幼稚園を借りて開かれたことを知っていましたが、
私自身は酒は止められない、大津支部が膳所本町の今の例会場の二階の畳の部屋で例会が開かれてた時、私は院内生として出席をしていました、私にとって思い出深い例会場である、十四回の入退院のくり返しの中で、岩倉病院に入院中の時幻覚のひどさから右手が半身不随になる、それ以後杉浦先生を勘ちがいから飲み続ける中でうらむ様になった事もある、
ある日酒が切れて飲みたくてしかたがない時に、母親に浜大津の駅から電話をする、母親が涙を浮かべながらワンカップを持って来た、母親は着物を質に入れて酒を買ってきたとのだと言う、どうしょうも無い男になつてしまった、それから大津の実家に帰る、たまりかねた母親甲西町の母親の里の山の中で私と死んでくれと言った、
その一言で止める決意をした、
十五回目の入院を大阪淀の水病院一週間、その一週間は私のラストチャンスでした、病院のスタッフの方々の協力でさらに決意をかためる、退院後例会出席を続ける、
父親が自転車で豆腐を売りながらこの私に断酒会に通えともうけの少ない中で交通費を出してくれる。涙が出るほど嬉しかった、それからしばらくして仕事に着く、例会出席のおかげで酒は止まってましたが、
一人の同期のKさんに私の仕事先ででだまされてジュースの中にアルコールが混入されているとも知らないで飲んだため連続飲酒になる、この時ほど人間不信になったことはない。
昭和六十二年末に岩倉病院退院後知り合い再婚した今の妻と無所属で例会出席を続ける。
平安会に度々再飲酒のためか入会認めてもらえない、それでもガマンしながら例会出席で自分のブザマな体験談を語り続けた、その後約一年で入会を認めて頂いた、そして今があります。
大津の小学校の同窓会に何年か前に出席をした時笑顔で迎えてくれた男二人、一人は私が酒でどうにもならない時に私の前で君に売る酒は無いと酒を全部捨てた方、もう一人は同じガキ大将であった今は議員になっておられる方、この方は私の断酒を喜んで滋賀全国大会虹の会や大津支部記念例会に出席して頂いて励ましの言葉を頂いた。大津支部長村田氏とはOB会のおたぎ会等で共に頑張っています
、彼にも娘さんが居ります、彼の娘さんと山科駅で会った時、娘さんに今度村田君が飲んだらきびしい対応する様に言ったことがある。何回もの精神病院の入退院のく返しで身も心もボロボロになった。
できるならこれから酒を止める方々に私の様になってほしくない。
私の娘がやっと結婚を決意してくれました、これほどの喜びの感動はない。
ガンとアルコール依存症の闘いの中で私を支えてくれた妻に感謝する、二人で海外の断酒会や日本全国断酒会等に歩き続けたかいあって今酒止め続けて生きている、命の尊さを知り、命を大切にしながら妻と二人三脚で断酒会の中で仲間と共に命の絆をつくってゆきたい。
下記クリックしてください、PFDにて閲覧プリント出来ます。
「命の絆」 京都府断酒平安会 東江 清一
写真ーー>京花シダレヤナギ
滋賀県断酒同友会大津支部が三十周年を迎える。村田支部長はじめ支部員の皆様誠におめでとうございます。
私も断酒会を知って三十数年になります。
今私が常に心がけている事がある。
一日を笑顔で過ごす事、大切な事だと思っています。
愛宕登山の時先輩のSさんからなりげない言葉「これからはその笑顔でいこうや、貴男は笑顔が良い」と。それまでの私は断酒会の内であまり笑う事が無かったかもしれない。今思えば宝物を頂いた気持だ。
私は近江の郷大津に昭和十七年夏に生まれる。
その時分親父が蒲鉾職人として日々精いっぱい家族を守っていました。
その親父も仲々の酒飲みでした。
終戦のあおりで親父は慣れない土木業についた、長男の私を一人前の蒲鉾職人にすることが親父の夢だったと聞かされていました、その土木業の仕事で事故に遭い片足を切断する、其の後の親父は裏社会の人達都の付合いが多くなり、そのためか生活苦から一家心中するところまでおいつめられる。
見るに見かねた蒲鉾屋の親方の長男が、当時七才でガキ大将であった私を使ってくれる事になる、義務教育を受けないで世間の荒波の内に入っていった、その時分コロッケ一個三円、蒸しパン一個三円、その蒸しパンを持ち帰り家族の糧として生活をしていました。
昭和二十三年の頃である、母親が弟を身籠っていました。
今思えば学校に行かず仕事に着いた私は両親のためになった男でした。
その私を見込んだ蒲鉾屋の親方が私を奉公人としてつかってくれる事になる、もちろん学校も認めてくれました、それから私が善悪の道をさよう男になり酒も覚えバクチの使い走りをする様になる、しかし仕事だけは、一生懸命覚えた。
十七才の時親方の反対を押切って女中してた女性と結婚する、そのため蒲鉾屋を離れる事になる、昭和三十六年の事でした、昭和三十六年の事でした。
昭和三十八年九月長男出生する、一年七ヶ月トラックの運転をしながら家族を守る、その時分は何かにつけて酒を良く飲んだ、その頃の酒の飲方はましな方だった、突然私の視力が悪くなり運転手の仕事が出来なくなる、再度私は頭を下げて蒲鉾屋に戻れることになる、
その時分日本は東京オリンピックで盛り上がっていた、私が近畿代表でパラリンピックでメダルをもらうことが出来た、各方面の著名人から盛大な歓迎を受ける、その時親方が名誉な事だと私に工場長のポストを用意してくれる、
それ以後の私は有頂天のなり我を忘れ酒に溺れてゆく事になる、昭和四十ニ年長女出産、二十五才にして山科に大きな家も新築出来た、益々有頂天になり我の強い男になっていく、仕事に行き帰りに深酒する、段々と切れなくなる、妻が夜の商売に着く、酒でボケた頭で思う事は妻に対しての嫉妬妄想でした、
その後三重県に単身で責任者として仕事に行く、その仕事も酒を飲みに行った様なものだった、その時、三重の断酒会の例会をすすめられるが私自身その気にならない、三重から帰ると家族が宇治黄檗病院を用意しててくれました、
副院長の広兼明先生に主治医になってもらうが酒は止められない、受診をぬけ出して病院の側の万福寺で酒を飲んだこともある、今度は岩倉病院で杉浦先生に主治医になってもらうが酒の方は中々止められない、黄檗と岩倉の入退院のくり返しの度に、私の家族が姿をかくす様にになる、酒でボケた頭でしたので離婚されたと勘ちがいをしてたのか連続飲酒の状態で家族をうらむ事しかなかった、
私から家族が離れた後、色々な仕事に着く、時には裏組織の仕事をした事もある、酒を止める気があるはずもない。
昭和五十二年に平安会に入会はしたものの例会の帰りに飲んだ事もある。
大津支部が膳所本町に看板が出てました昭和五十五年六月の事です、支部長は川北氏でした、彼の自宅で例会が開けれていあました、そして幼稚園を借りて開かれたことを知っていましたが、
私自身は酒は止められない、大津支部が膳所本町の今の例会場の二階の畳の部屋で例会が開かれてた時、私は院内生として出席をしていました、私にとって思い出深い例会場である、十四回の入退院のくり返しの中で、岩倉病院に入院中の時幻覚のひどさから右手が半身不随になる、それ以後杉浦先生を勘ちがいから飲み続ける中でうらむ様になった事もある、
ある日酒が切れて飲みたくてしかたがない時に、母親に浜大津の駅から電話をする、母親が涙を浮かべながらワンカップを持って来た、母親は着物を質に入れて酒を買ってきたとのだと言う、どうしょうも無い男になつてしまった、それから大津の実家に帰る、たまりかねた母親甲西町の母親の里の山の中で私と死んでくれと言った、
その一言で止める決意をした、
十五回目の入院を大阪淀の水病院一週間、その一週間は私のラストチャンスでした、病院のスタッフの方々の協力でさらに決意をかためる、退院後例会出席を続ける、
父親が自転車で豆腐を売りながらこの私に断酒会に通えともうけの少ない中で交通費を出してくれる。涙が出るほど嬉しかった、それからしばらくして仕事に着く、例会出席のおかげで酒は止まってましたが、
一人の同期のKさんに私の仕事先ででだまされてジュースの中にアルコールが混入されているとも知らないで飲んだため連続飲酒になる、この時ほど人間不信になったことはない。
昭和六十二年末に岩倉病院退院後知り合い再婚した今の妻と無所属で例会出席を続ける。
平安会に度々再飲酒のためか入会認めてもらえない、それでもガマンしながら例会出席で自分のブザマな体験談を語り続けた、その後約一年で入会を認めて頂いた、そして今があります。
大津の小学校の同窓会に何年か前に出席をした時笑顔で迎えてくれた男二人、一人は私が酒でどうにもならない時に私の前で君に売る酒は無いと酒を全部捨てた方、もう一人は同じガキ大将であった今は議員になっておられる方、この方は私の断酒を喜んで滋賀全国大会虹の会や大津支部記念例会に出席して頂いて励ましの言葉を頂いた。大津支部長村田氏とはOB会のおたぎ会等で共に頑張っています
、彼にも娘さんが居ります、彼の娘さんと山科駅で会った時、娘さんに今度村田君が飲んだらきびしい対応する様に言ったことがある。何回もの精神病院の入退院のく返しで身も心もボロボロになった。
できるならこれから酒を止める方々に私の様になってほしくない。
私の娘がやっと結婚を決意してくれました、これほどの喜びの感動はない。
ガンとアルコール依存症の闘いの中で私を支えてくれた妻に感謝する、二人で海外の断酒会や日本全国断酒会等に歩き続けたかいあって今酒止め続けて生きている、命の尊さを知り、命を大切にしながら妻と二人三脚で断酒会の中で仲間と共に命の絆をつくってゆきたい。
下記クリックしてください、PFDにて閲覧プリント出来ます。
2013/05/12のBlog
[ 05:58 ]
[ 家族の体験談 ]
●『やっとたどり着いた断酒会』三重断酒新生会山崎 智子ーーー>ここから
●『やっと夫婦になれました』三重断酒新生会坂口 純子ーーー>ここから
●『娘と歩む断酒の道』香川県断酒会太田 富子ーーーここから
●『・・・・・・・・・』広島断酒ふたば会佐渡 順子ーーーここから
●『あまりにもいろいろありました』三重断酒新生会栗田 幸子ーーここから
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 和美
「私と父のラストチャンス」ーーーー ここから
●京都府断酒平安会 山科支部 阿部 実智代
「酒と決別した主人の営業部人生」---------こちらから
●兵庫県川西断酒会 中央支部 馬場 弘子
「断酒会でつかんだ幸せ」----------こちらから
「断酒会を信じて」----------------こちらから
●奈良県断酒連合会 南大和断酒会 荒川 弥生
「大好きなお母さん」-------------こちらから
●大阪府高槻市 石村 健二
「恵子の軌跡 水中毒と闘う Ⅰ」--------こちらから
「恵子の軌跡 水中毒と闘う Ⅱ」--------こちらから
●『やっと夫婦になれました』三重断酒新生会坂口 純子ーーー>ここから
●『娘と歩む断酒の道』香川県断酒会太田 富子ーーーここから
●『・・・・・・・・・』広島断酒ふたば会佐渡 順子ーーーここから
●『あまりにもいろいろありました』三重断酒新生会栗田 幸子ーーここから
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 和美
「私と父のラストチャンス」ーーーー ここから
●京都府断酒平安会 山科支部 阿部 実智代
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「大好きなお母さん」-------------こちらから
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「恵子の軌跡 水中毒と闘う Ⅰ」--------こちらから
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2013/05/10のBlog
[ 17:38 ]
[ アルコール依存症の家族へ ]
[ 13:15 ]
[ 本人の体験談 ]
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 清一命の絆ーーーこちらから
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 清一 ラストチャンス・初心ーーーーこちらから
●大阪市港断酒会 操谷 稔「断酒21年を迎えて+自分を見つめる」ーーーーこちらから
●神戸市断酒会 諏訪田 陽山 ・「アル中教師」---こちらから
●京都府断酒平安会 右京支部 中川 和人 ・「一年を振り返って」----こちらから
●大阪市港断酒会 小西 正博 ・「今日一日を 全力で生きる」---こちらから
●京都府断酒平安会 山科支部 阿部 孝義 ・「星の王子さま」を読んで--こちらから
・・・・・・・・「涙を流し自分を知った」-------こちらから
●兵庫県川西断酒会 中央支部 馬場 省三 ・「続ける力」--------こちらから
●和歌山市断酒会友綱 橋口 孝一 ・「断酒会 どうして涙が止まるのか」-------こちらから
●大阪府高槻市断酒会 近藤 修 ・「陽はまた昇る」-------こちらから
●神戸市断酒会 清瀬 憲一 ・「もう、おとんとは呼ばせない」 「アルコール依存症とホームレス」----こちらから
●京都府断酒平安会 山科支部 阿部 孝義 ・「断酒会との出会い7年」「断酒継続4年表彰」--こちらから
●大阪府高槻市断酒会 西支部 石村 惠子 ・「水中毒って何ですか」----こちらから
●兵庫県川西断酒会 中央支部 山﨑 渉 ・「断酒新生」---こちらから
●高石市断酒会 本多 宏臣 ・「自分を振り返って」--------こちらから
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 清一 ラストチャンス・初心ーーーーこちらから
●大阪市港断酒会 操谷 稔「断酒21年を迎えて+自分を見つめる」ーーーーこちらから
●神戸市断酒会 諏訪田 陽山 ・「アル中教師」---こちらから
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2013/05/08のBlog
[ 12:29 ]
[ アルコール症専門医の寄稿集 ]
2012/06/11のBlog
[ 13:53 ]
[ 飲酒運転とアルコール依存症 ]
2012/04/21のBlog
[ 08:12 ]
[ 依存症と自死(自殺)について ]
●カウンセリングオフィス ひぃりんぐ工房房主 臨床心理士 西野 敏夫
「依存症と自死について」--------こちらから
「依存症と自死について」--------こちらから
2012/04/20のBlog
[ 10:17 ]
[ 医療・行政と断酒会の連携 ]
[ 07:20 ]
[ 本人の体験談 ]
創立45周年を迎えて 初代会長岩崎廣明 於:三光病院 断酒センターにて
おはようございます。
あの今、つくづく思ったんですが、市川先生がご挨拶の中でお話された家族の体験発表のお話ですけれどもね。
私、会長をしていた時ですけれども、市川先生があの、「家族の体験談が大事だ。」という事を一所懸命言ってくれていてもね。
私らの聞く心の中っていうのは、そんなに深く聞かないんですよねえ。
やはり、男の私っていうのは。
すぐに浮かぶのはねえ、本部例会の事しか浮かばない。
「本部例会のとこだったら、人数が同じ位出席して、体験談もそれぞれ出来ているわ。」と。そうぐらいしか考えない。
先生のおっしゃっている事の深さっていうのはねえ、
男の我々には解らないんですねえ。よう解らない。
でえ、地域の方行ったら全然上手くいってないわあ。
でえ、家族も出て来てないしねえ。
でえ全然あのう上手くいってないっていう事が見てそれで解ってねえ。
でえ、丸亀の保健所でやってた例会にねえ、そうだ、先生の言われてたことちゃんとやらないといけないと思って、6人か7人いた家族の方にねえ、「今日は家族から体験発表して欲しい。
家族が一所懸命自分の体験談を語ってあげて欲しい。」とお願いしたんです。
でえ、その後、会員に走るようにしたんですねえ。
古谷さん(南)もその時行っていたから、その様子を良く覚えているんですが、そうしましたらねえ、家族も一所懸命、体験発表してくれた。辛い話もしてくれた。
そしたら三船病院から来られていた患者さんがね、6人か7人位おられた。
その方いつも出てはタバコを吸い、出てはタバコを吸いする人、その方がねえ全然動かないんですよ。
出て行かない。
出て行かない事が解ったんですけどね。
最後に終った時にねえ、係長さんがねえ一番に言いました。
「例会が変わりましたねえ、この例会が。雰囲気が変わりましたねえ。」って係長さんがおっしゃった。
考えてみるとねえ、患者さんが動かないっていう事はどういう事だったんだろうか?家族の体験談を自分の家族に合わせてしているもんですからねえ、外に出て行かないんですよ。
一所懸命聞いていたんですねえ、患者さんが。患者さんが一所懸命聞いていれば、それはもうダラダラしないしね。
その例会が変わるという事をその時初めて、先生のおっしゃっている事が解った。
深い意味が解ったんです。
家族の体験発表という事はどういう事か?家族もその事を考えて感じて体験発表しないといけないし、我々も家族の体験発表を聞いて初めてやった酷さが解る。
普通の患者さんが言っている事も酷いなあ、と思うけれどもね。家族の体験談の言っているあの辛さ、酷さっていう事を感じてくる時にねえ、大変申し訳なかったなあいう気持ちがやっぱり浮かんでくる。
この事が大事なんですねえ。そういう風な事を感じたんです。
だから今このように会が段々と少なく、小さくなってきているのは我々の大きな責任だなあと考える。
感じる事があります。これが一あるのと、それからですねえ、もう一つは松村会長との出会いがありました。
酷い私も酒飲みでしたからねえ、まあ時間が有りませんのでそこは割愛致しますけれどもねえ。
松村会長が約束した事を守る事。それから自分の辛さの事をズゥ-と話されて一番最後にねえ、本当に辛かったんだあと思うんで「アル中は不幸であってはなりません。
幸せになれる。
幸せになる為には、家族と一緒にこの例会に出席する事です。」とこう言った。
で私はアル中ではないと思っていた。
で酒止めたら断酒じゃないと思ってた。その位の考えしか持ってませんもんね。
だから、断酒会に入っていてもねえ、
失敗すると思っていた。
失敗すると思って松村会長に話したんです。「私は失敗するから会長、断酒会に入りませんわ。」こう言ったら、「いや、断酒会はねえ酒止めている人だけの会ではないんだ。」ここが大事なんですねえ。
私はまだその時ねえ、話が充分に解って無かった。止めている人の会ですねえ。ではないんやと。
あのね、「これから止めようとする人の会や。」とこう言う。
止めようとする人の会やと言うけれどもねえ、又、失敗したらそこから立ち直って止めたらええんや。こういう事になって「あっそうか。それやったら断酒会を利用したらええなあ。」いう感じがちょっとあった。
で「3年経って止めてもええですか?」言うたら。
「ああ、それで結構です。」松村会長言ってくれた。
それで断酒会が出来るかいうたら出きないんですよ。
酒の魅力や魔力っていうのはそんな簡単に消えないですねえ。
そこまで言ってくれたのにですねえ、する事が出来なかった。
シアノマイドもらいにね四鉄病院の磯島先生とこ行っちゃ、磯島先生がねえ「ああ、シアノマイドいるんやったら入院せないかんのや。
入院せないかんので。もういっその事断酒会作ったらどうや。」って言ってくれたからねえ。
断酒会を一緒にやったらいいなと思って断酒会が始まったのが41年の2月25日なんですよ。
でえ、私が言いたいのはねえ。この時にねえ、断酒会のあり方っていう事を松村会長が言っていたという事が良く解らなかった。
断酒会っていうのはねえ、酒止めた人ばっかりの会ではいかんのや。
止めた人だけの会ではないんや。その会になるとねえ、その人ばっかりの会になってしまう。止めようとする人の会を、止めようとする人をそこに含み入れて、そして一緒に止めていく会でなかったらね、会なんて発展しやへんのや。
その事を松村会長が言ってたいう事がまだ解らんのや。酒を止めようとする人の会なんですよ。酒を止めている人の会やないんや。止めようとする人の会なんや。
それ大いに意味が違うでしょ。
酒止めてる人の会じゃないんや。酒を止めようとする人の会なら、我々はどうせなければいけないか?いう事を問われているんねや。
問われているいう事を後になって解った。人間てのはねえ、我々はねえ、後にならんと解らんのや。
その時いうたら、その時の気持ちだけでしかない。
それだけの脳しかない。
それだけの脳でしか考えてないんやから、解らんのですよ。
ここが大事なんですねえ。
断酒会っていうのは後で解っていくという事はどういう事かいうとやっぱり少しづつ成長していくから、その言ってた事の意味が解るんですよ。
成長する言うたらどういう事かいうたら、家族の体験談を一所懸命聞いて、自分が反省して、悪かったなあ。
そんな事したらいかんなあいう事を解ってこなんだらあ、人間なんて成長していくわけが無い。
日々変わっていくいう事せなんだら、いつまで経っても元のままの気持ちでおるんなら、断酒会の中でただ安丹としている事なら成長せんのならね、断酒会なんて発展やしていかない。
大きくなっていくわけが無い。
全断連がそうや。そういう風な事になるいう事をね、松村会長が言っていた事が良く解る。
松村会長はねえ、脳軟化症になって全国大会を、第6回の大会を高知でやられた時がある。
で、それまでに小林さんの詩の中でこういうのを書いていた。松村会長はねえ「神も仏も無いもんか?」で「悔しかった。」悔しかったんです。
それは会館を建てないかん事もあるやろうし、全断連を法人化せないかん事もあったやろうけれども、それよりも私が思ったのはねえ、松村会長が病院で登壇してですよ。
言った言葉の中にあったと思う。
松村会長はねえ。こういう風に言われた。
初めにねえ、「自分が救かる事だけを考えるんじゃなくしてですよ。自分が救かる事だけでなくしてねえ。
悲劇のどん底におるアル中の皆さんを救けてくれるように皆さん頑張ってください。」と言った。
あれは会がおかしくなってるなあという一つのあれやなあと思う。松村会長がおらなくなってねえ、断酒会が変わってきてるんですよ。リーダーみたいのが変わってくるとねえ、断酒会っていうのは変わるんですよ。
松村会長が病床にいた時に、松村会長がそこ立てってもの言うたらいかんいう時に壇上に上がって行ってねえ、「どうか皆さん。」って訴えた言葉っていうのはねえ、断酒会が変わってしまっているその様子がその中にあったんだろうと私は思う。
断酒会が変わってきている事が嘆いていた。だから、「自分の事だけを考えるんで無くしてね、自分が救かる事だけじゃなくして、アル中で困っている人を救う為に皆さんどうぞ頑張ってくださいよ。」と言ったんですよ。
救う為に頑張らないかんいう事はどういう事か考えないかんですねえ。その事が私らもまだ解らん。解らなかった。
そういう風な深い意味の事が解らなかったんですよねえ。
で松村会長はねえ「私いつも新人の気持ちで例会に出席させて貰ってます。」でそういうような気持ちでいつも聞いているんですよ。
聞いているんですねえ。
だから私はやはり会のあり方としてねえ、どういうような会が一番良いんだろうかというのがあると思う。
で、勿論止めていってる人の会であるならねえ、その人に温かく接していくような会でなかったらいかんし。リーダーもそういうような役職にある人達も皆、そういう気持ち出なかったらねえ、我々は酒が一番楽しいと思っているのにねえ、そこで一言問題になったり、色んな言葉を掛けたりねえ、言わなかったら、その人達なんてしんどくってねえ、会にや残っていこうという気持ちにならないんですよ。
温かくその人に接する事が無かったらねえ、私は会がどんどん大きくなっていくとは思わん。絶対思わないですよ。
だって酒の方が良いもの。ちょとしたら出ていってしまういう事がよくある。それからもう一つはねえ、やはり動機付けになると松村語録の中で言ってますけどねえ、病院の先生から色んな事を教えられてねえ、色んな事を教えられて、それからその患者さんがこれから地域の中に出てそして皆さんとの断酒会との接触があって初めて断酒会というものが良くなっていく。そういうな事言われた。和気隆三先生(新生会病院)が言われた事を思い出しますよ。
これから退院する時に「私はねえ、この人をどこの断酒会に繋げたらええか、私は悩んで苦しんだ。
あそこの会に入れてあげたらええと思っても、近くで。
ああ、あんな会にやる事は出来ん。
会にはいろんな事がある訳ですよ。
色々。
会に入れる事が出来ない患者さんがいるなんて事はこんな悲しい事は無いですね。一番身体が良くなってこれから断酒して行こうという所にこう問い合わせていくという事が出来ないという事は悲しくていかんのですよね。」で、その為にはどういう事だろうか?私は市川先生から教えて貰ったのはねえ、全部役職にある人は「させて貰います。」なんですよ。
「してやってる。」では全然駄目ですわ。それはいつの間にか知らんけれども。それがいつの間にか知らんけれども、我々もそうなっていたと思う
。私が会長やっていても人間何ていうのは直ぐにそういう風に感じるんや。ちょっと皆から言われたら、偉くなったみたいに。
偉くなる訳じゃあ全然無いんです。
平等やから。
平等であって責任を持つのが断酒会やからねえ。
そうなるんでは駄目なんや。偉くなるんじゃないんですよ。
「させて貰います。」って一番先生の病院のここ(断酒センター)を建てる時にね、一番に他をしないでここを建てたんや。
この会場を、ここを例会場を一番に工夫されてですよ。工夫されてここを造られた。ここを造られたいう事を感動するでしょ。
感激もするでしょう。
酒止めていってるのは、でもここへ来るのが少ないいうのはやっぱり情けないなと僕は思う。会員であって、お世話になって、例会もさせて貰い。
この会場で会もさせて貰うところでねえ、例会がずっとあるのにも関らずなあ、これないという事はどういう事やと私は感じる。
断酒してハァ~良かったなと、反省してこれからも一所懸命皆さんと酒止めていこうなあと新しい人がおるなら迎えていこうじゃないか、その人も断酒会に入れてそれで頑張って行こうなあいうのが私は断酒会の基本やと思う。
皆。
松村会長が言いたかったんはそれなんや。
そやけどそれが無いいうのはやっぱり寂しい。それは私らの責任にあるんやと思うけどねえ。寂しすぎる。
ここへ来たらそらあ真剣に体験発表をしてねえ、家族の体験を聞いて、入院患者さんの体験を聞いて、そして色々するから来にくいいう事があるかもしれないけどねえ、やはり人間ていうのは時間を取ることが出来たらここへ来て座っていう事をしてするのが断酒会の精神に含まれていると思う。断酒の精神に含まれていると思う。
そうしないと断酒したら、出来たもんだけで一緒になってしもうたらねえ、これから止めようとする人はその中に入っていけないんですよ。
それが本当に解らないんです。
解らなくなるんですよ。
私自身が解らなくなっている時があるんですからねえ。
だから45周年という記念の時にですねえ、もう一度原点に帰る。
松村会長が言っている事はどういう事なんだろうか?で、我々がしていかないといけない事はどういう事なんだろうか?
私が断酒できるというんだけじゃなくって、私が断酒できた。
あの人とも断酒が出来ていった。皆で一緒に知恵を語り、助け合って、励まし合っていく会ならば新しい人だってそこに入っていく事が出来るだろうしねえ。
そういう風になっていかないと断酒会なんて段々、段々と衰退していってしまうだろうと思う。
声を一言掛けようやないのねえ。
新しく入ってくる人には声を掛けあってそしてやっていく事が一番大事なことやと思う。
家族の体験談聞きよったらねえ、ハァ~申し訳なかったな。
今こうやって酒止めさして貰ってるのも例会に来さして貰って酒止められたからいう気持ちにやっぱりなりますよ。
その事やってなかったらこういう風に中々なれない。
その事が大事だなあと思う。
で私は家の子供がねえ、あのうこういう風に言った
。最近ですけどね。家の女房が身体悪うしてしまっているんだけれども。あのう、家の家庭が娘と息子と私と女房と4人で食事をしておった時にねえ、このように言った。「このような家庭になったのは、お父さんが断酒してくれたから、こういう家庭になった。」って言った。
初めて言ってくれた。「こういうになった。」言ってくれた。息子が言うてくれた。
嬉しかった。
皆何にも言わんけれどもそれだけ言ってくれたんや。
孫達もそれで一所懸命考えてやってくれる孫になった。
私はやっぱりねえ、アル中が酒を止めていくいうのは家族の応援も一所懸命あっただろうけれどもねえ、その話を聞いた時、アル中は家族に対する愛情というものが無かったらねえ、いかんのはどこから出て来るか言うと、皆一所懸命家族をお父さんを、お母さんを応援しているその子供達っていうのが喜んで貰えるようになるっていう事はねえ、例会でねえ人の話を聞いてねえ。
そしてやらないかんなという事を知る事が出来たんですねえ。
だから私はあのう今度45周年を迎えてねえ、もう嫌な感じを受けたかも解りませんけれども。断酒会やっぱりもう一度新しい気持ちに皆が帰って、そしてこれから酒を止めさせて貰っているんやから、そういうような新しい人達にそういう心がけで語っていこう。
共に行こう。
そういう会になっていかないと駄目やと思うしね。今の全断連に関っている方がいらっしゃるから、全断連の方も中々動こうとせんけれども、断酒会の家族から体験発表をきちっとやって、やらないと上手くいかんいう事は事実なんですから。
その事を声を高くして言って頂きたいし、我々も大会に行った時に総会に行った時にはそういう事を声を大にして言い合っていくという事をやっていきたいなあと思っております。えー、嫌な感じの事も言いましたけどそれは私を含めての反省点でして、これからは一生懸命皆で仲良く手を携えて励まし合って。で役職にある人は「させて貰います。」いう事になるとねえ、信頼が出て来るんや。信頼感が無いものは一所懸命リーダーになってやったとしたって上手い事いかん。
「させて貰います。」や。
我々、皆そうなんや。この断酒会で本当に生きていく事が出来るんやったら、この言葉、心を持って皆で接していきたいもんやな。こう私は思って発表させて貰いました
。以上で、苦言を呈(てい)しましたけれども、一所懸命頑張っていこうと思っています。有難うございました。(大拍手)
おはようございます。
あの今、つくづく思ったんですが、市川先生がご挨拶の中でお話された家族の体験発表のお話ですけれどもね。
私、会長をしていた時ですけれども、市川先生があの、「家族の体験談が大事だ。」という事を一所懸命言ってくれていてもね。
私らの聞く心の中っていうのは、そんなに深く聞かないんですよねえ。
やはり、男の私っていうのは。
すぐに浮かぶのはねえ、本部例会の事しか浮かばない。
「本部例会のとこだったら、人数が同じ位出席して、体験談もそれぞれ出来ているわ。」と。そうぐらいしか考えない。
先生のおっしゃっている事の深さっていうのはねえ、
男の我々には解らないんですねえ。よう解らない。
でえ、地域の方行ったら全然上手くいってないわあ。
でえ、家族も出て来てないしねえ。
でえ全然あのう上手くいってないっていう事が見てそれで解ってねえ。
でえ、丸亀の保健所でやってた例会にねえ、そうだ、先生の言われてたことちゃんとやらないといけないと思って、6人か7人いた家族の方にねえ、「今日は家族から体験発表して欲しい。
家族が一所懸命自分の体験談を語ってあげて欲しい。」とお願いしたんです。
でえ、その後、会員に走るようにしたんですねえ。
古谷さん(南)もその時行っていたから、その様子を良く覚えているんですが、そうしましたらねえ、家族も一所懸命、体験発表してくれた。辛い話もしてくれた。
そしたら三船病院から来られていた患者さんがね、6人か7人位おられた。
その方いつも出てはタバコを吸い、出てはタバコを吸いする人、その方がねえ全然動かないんですよ。
出て行かない。
出て行かない事が解ったんですけどね。
最後に終った時にねえ、係長さんがねえ一番に言いました。
「例会が変わりましたねえ、この例会が。雰囲気が変わりましたねえ。」って係長さんがおっしゃった。
考えてみるとねえ、患者さんが動かないっていう事はどういう事だったんだろうか?家族の体験談を自分の家族に合わせてしているもんですからねえ、外に出て行かないんですよ。
一所懸命聞いていたんですねえ、患者さんが。患者さんが一所懸命聞いていれば、それはもうダラダラしないしね。
その例会が変わるという事をその時初めて、先生のおっしゃっている事が解った。
深い意味が解ったんです。
家族の体験発表という事はどういう事か?家族もその事を考えて感じて体験発表しないといけないし、我々も家族の体験発表を聞いて初めてやった酷さが解る。
普通の患者さんが言っている事も酷いなあ、と思うけれどもね。家族の体験談の言っているあの辛さ、酷さっていう事を感じてくる時にねえ、大変申し訳なかったなあいう気持ちがやっぱり浮かんでくる。
この事が大事なんですねえ。そういう風な事を感じたんです。
だから今このように会が段々と少なく、小さくなってきているのは我々の大きな責任だなあと考える。
感じる事があります。これが一あるのと、それからですねえ、もう一つは松村会長との出会いがありました。
酷い私も酒飲みでしたからねえ、まあ時間が有りませんのでそこは割愛致しますけれどもねえ。
松村会長が約束した事を守る事。それから自分の辛さの事をズゥ-と話されて一番最後にねえ、本当に辛かったんだあと思うんで「アル中は不幸であってはなりません。
幸せになれる。
幸せになる為には、家族と一緒にこの例会に出席する事です。」とこう言った。
で私はアル中ではないと思っていた。
で酒止めたら断酒じゃないと思ってた。その位の考えしか持ってませんもんね。
だから、断酒会に入っていてもねえ、
失敗すると思っていた。
失敗すると思って松村会長に話したんです。「私は失敗するから会長、断酒会に入りませんわ。」こう言ったら、「いや、断酒会はねえ酒止めている人だけの会ではないんだ。」ここが大事なんですねえ。
私はまだその時ねえ、話が充分に解って無かった。止めている人の会ですねえ。ではないんやと。
あのね、「これから止めようとする人の会や。」とこう言う。
止めようとする人の会やと言うけれどもねえ、又、失敗したらそこから立ち直って止めたらええんや。こういう事になって「あっそうか。それやったら断酒会を利用したらええなあ。」いう感じがちょっとあった。
で「3年経って止めてもええですか?」言うたら。
「ああ、それで結構です。」松村会長言ってくれた。
それで断酒会が出来るかいうたら出きないんですよ。
酒の魅力や魔力っていうのはそんな簡単に消えないですねえ。
そこまで言ってくれたのにですねえ、する事が出来なかった。
シアノマイドもらいにね四鉄病院の磯島先生とこ行っちゃ、磯島先生がねえ「ああ、シアノマイドいるんやったら入院せないかんのや。
入院せないかんので。もういっその事断酒会作ったらどうや。」って言ってくれたからねえ。
断酒会を一緒にやったらいいなと思って断酒会が始まったのが41年の2月25日なんですよ。
でえ、私が言いたいのはねえ。この時にねえ、断酒会のあり方っていう事を松村会長が言っていたという事が良く解らなかった。
断酒会っていうのはねえ、酒止めた人ばっかりの会ではいかんのや。
止めた人だけの会ではないんや。その会になるとねえ、その人ばっかりの会になってしまう。止めようとする人の会を、止めようとする人をそこに含み入れて、そして一緒に止めていく会でなかったらね、会なんて発展しやへんのや。
その事を松村会長が言ってたいう事がまだ解らんのや。酒を止めようとする人の会なんですよ。酒を止めている人の会やないんや。止めようとする人の会なんや。
それ大いに意味が違うでしょ。
酒止めてる人の会じゃないんや。酒を止めようとする人の会なら、我々はどうせなければいけないか?いう事を問われているんねや。
問われているいう事を後になって解った。人間てのはねえ、我々はねえ、後にならんと解らんのや。
その時いうたら、その時の気持ちだけでしかない。
それだけの脳しかない。
それだけの脳でしか考えてないんやから、解らんのですよ。
ここが大事なんですねえ。
断酒会っていうのは後で解っていくという事はどういう事かいうとやっぱり少しづつ成長していくから、その言ってた事の意味が解るんですよ。
成長する言うたらどういう事かいうたら、家族の体験談を一所懸命聞いて、自分が反省して、悪かったなあ。
そんな事したらいかんなあいう事を解ってこなんだらあ、人間なんて成長していくわけが無い。
日々変わっていくいう事せなんだら、いつまで経っても元のままの気持ちでおるんなら、断酒会の中でただ安丹としている事なら成長せんのならね、断酒会なんて発展やしていかない。
大きくなっていくわけが無い。
全断連がそうや。そういう風な事になるいう事をね、松村会長が言っていた事が良く解る。
松村会長はねえ、脳軟化症になって全国大会を、第6回の大会を高知でやられた時がある。
で、それまでに小林さんの詩の中でこういうのを書いていた。松村会長はねえ「神も仏も無いもんか?」で「悔しかった。」悔しかったんです。
それは会館を建てないかん事もあるやろうし、全断連を法人化せないかん事もあったやろうけれども、それよりも私が思ったのはねえ、松村会長が病院で登壇してですよ。
言った言葉の中にあったと思う。
松村会長はねえ。こういう風に言われた。
初めにねえ、「自分が救かる事だけを考えるんじゃなくしてですよ。自分が救かる事だけでなくしてねえ。
悲劇のどん底におるアル中の皆さんを救けてくれるように皆さん頑張ってください。」と言った。
あれは会がおかしくなってるなあという一つのあれやなあと思う。松村会長がおらなくなってねえ、断酒会が変わってきてるんですよ。リーダーみたいのが変わってくるとねえ、断酒会っていうのは変わるんですよ。
松村会長が病床にいた時に、松村会長がそこ立てってもの言うたらいかんいう時に壇上に上がって行ってねえ、「どうか皆さん。」って訴えた言葉っていうのはねえ、断酒会が変わってしまっているその様子がその中にあったんだろうと私は思う。
断酒会が変わってきている事が嘆いていた。だから、「自分の事だけを考えるんで無くしてね、自分が救かる事だけじゃなくして、アル中で困っている人を救う為に皆さんどうぞ頑張ってくださいよ。」と言ったんですよ。
救う為に頑張らないかんいう事はどういう事か考えないかんですねえ。その事が私らもまだ解らん。解らなかった。
そういう風な深い意味の事が解らなかったんですよねえ。
で松村会長はねえ「私いつも新人の気持ちで例会に出席させて貰ってます。」でそういうような気持ちでいつも聞いているんですよ。
聞いているんですねえ。
だから私はやはり会のあり方としてねえ、どういうような会が一番良いんだろうかというのがあると思う。
で、勿論止めていってる人の会であるならねえ、その人に温かく接していくような会でなかったらいかんし。リーダーもそういうような役職にある人達も皆、そういう気持ち出なかったらねえ、我々は酒が一番楽しいと思っているのにねえ、そこで一言問題になったり、色んな言葉を掛けたりねえ、言わなかったら、その人達なんてしんどくってねえ、会にや残っていこうという気持ちにならないんですよ。
温かくその人に接する事が無かったらねえ、私は会がどんどん大きくなっていくとは思わん。絶対思わないですよ。
だって酒の方が良いもの。ちょとしたら出ていってしまういう事がよくある。それからもう一つはねえ、やはり動機付けになると松村語録の中で言ってますけどねえ、病院の先生から色んな事を教えられてねえ、色んな事を教えられて、それからその患者さんがこれから地域の中に出てそして皆さんとの断酒会との接触があって初めて断酒会というものが良くなっていく。そういうな事言われた。和気隆三先生(新生会病院)が言われた事を思い出しますよ。
これから退院する時に「私はねえ、この人をどこの断酒会に繋げたらええか、私は悩んで苦しんだ。
あそこの会に入れてあげたらええと思っても、近くで。
ああ、あんな会にやる事は出来ん。
会にはいろんな事がある訳ですよ。
色々。
会に入れる事が出来ない患者さんがいるなんて事はこんな悲しい事は無いですね。一番身体が良くなってこれから断酒して行こうという所にこう問い合わせていくという事が出来ないという事は悲しくていかんのですよね。」で、その為にはどういう事だろうか?私は市川先生から教えて貰ったのはねえ、全部役職にある人は「させて貰います。」なんですよ。
「してやってる。」では全然駄目ですわ。それはいつの間にか知らんけれども。それがいつの間にか知らんけれども、我々もそうなっていたと思う
。私が会長やっていても人間何ていうのは直ぐにそういう風に感じるんや。ちょっと皆から言われたら、偉くなったみたいに。
偉くなる訳じゃあ全然無いんです。
平等やから。
平等であって責任を持つのが断酒会やからねえ。
そうなるんでは駄目なんや。偉くなるんじゃないんですよ。
「させて貰います。」って一番先生の病院のここ(断酒センター)を建てる時にね、一番に他をしないでここを建てたんや。
この会場を、ここを例会場を一番に工夫されてですよ。工夫されてここを造られた。ここを造られたいう事を感動するでしょ。
感激もするでしょう。
酒止めていってるのは、でもここへ来るのが少ないいうのはやっぱり情けないなと僕は思う。会員であって、お世話になって、例会もさせて貰い。
この会場で会もさせて貰うところでねえ、例会がずっとあるのにも関らずなあ、これないという事はどういう事やと私は感じる。
断酒してハァ~良かったなと、反省してこれからも一所懸命皆さんと酒止めていこうなあと新しい人がおるなら迎えていこうじゃないか、その人も断酒会に入れてそれで頑張って行こうなあいうのが私は断酒会の基本やと思う。
皆。
松村会長が言いたかったんはそれなんや。
そやけどそれが無いいうのはやっぱり寂しい。それは私らの責任にあるんやと思うけどねえ。寂しすぎる。
ここへ来たらそらあ真剣に体験発表をしてねえ、家族の体験を聞いて、入院患者さんの体験を聞いて、そして色々するから来にくいいう事があるかもしれないけどねえ、やはり人間ていうのは時間を取ることが出来たらここへ来て座っていう事をしてするのが断酒会の精神に含まれていると思う。断酒の精神に含まれていると思う。
そうしないと断酒したら、出来たもんだけで一緒になってしもうたらねえ、これから止めようとする人はその中に入っていけないんですよ。
それが本当に解らないんです。
解らなくなるんですよ。
私自身が解らなくなっている時があるんですからねえ。
だから45周年という記念の時にですねえ、もう一度原点に帰る。
松村会長が言っている事はどういう事なんだろうか?で、我々がしていかないといけない事はどういう事なんだろうか?
私が断酒できるというんだけじゃなくって、私が断酒できた。
あの人とも断酒が出来ていった。皆で一緒に知恵を語り、助け合って、励まし合っていく会ならば新しい人だってそこに入っていく事が出来るだろうしねえ。
そういう風になっていかないと断酒会なんて段々、段々と衰退していってしまうだろうと思う。
声を一言掛けようやないのねえ。
新しく入ってくる人には声を掛けあってそしてやっていく事が一番大事なことやと思う。
家族の体験談聞きよったらねえ、ハァ~申し訳なかったな。
今こうやって酒止めさして貰ってるのも例会に来さして貰って酒止められたからいう気持ちにやっぱりなりますよ。
その事やってなかったらこういう風に中々なれない。
その事が大事だなあと思う。
で私は家の子供がねえ、あのうこういう風に言った
。最近ですけどね。家の女房が身体悪うしてしまっているんだけれども。あのう、家の家庭が娘と息子と私と女房と4人で食事をしておった時にねえ、このように言った。「このような家庭になったのは、お父さんが断酒してくれたから、こういう家庭になった。」って言った。
初めて言ってくれた。「こういうになった。」言ってくれた。息子が言うてくれた。
嬉しかった。
皆何にも言わんけれどもそれだけ言ってくれたんや。
孫達もそれで一所懸命考えてやってくれる孫になった。
私はやっぱりねえ、アル中が酒を止めていくいうのは家族の応援も一所懸命あっただろうけれどもねえ、その話を聞いた時、アル中は家族に対する愛情というものが無かったらねえ、いかんのはどこから出て来るか言うと、皆一所懸命家族をお父さんを、お母さんを応援しているその子供達っていうのが喜んで貰えるようになるっていう事はねえ、例会でねえ人の話を聞いてねえ。
そしてやらないかんなという事を知る事が出来たんですねえ。
だから私はあのう今度45周年を迎えてねえ、もう嫌な感じを受けたかも解りませんけれども。断酒会やっぱりもう一度新しい気持ちに皆が帰って、そしてこれから酒を止めさせて貰っているんやから、そういうような新しい人達にそういう心がけで語っていこう。
共に行こう。
そういう会になっていかないと駄目やと思うしね。今の全断連に関っている方がいらっしゃるから、全断連の方も中々動こうとせんけれども、断酒会の家族から体験発表をきちっとやって、やらないと上手くいかんいう事は事実なんですから。
その事を声を高くして言って頂きたいし、我々も大会に行った時に総会に行った時にはそういう事を声を大にして言い合っていくという事をやっていきたいなあと思っております。えー、嫌な感じの事も言いましたけどそれは私を含めての反省点でして、これからは一生懸命皆で仲良く手を携えて励まし合って。で役職にある人は「させて貰います。」いう事になるとねえ、信頼が出て来るんや。信頼感が無いものは一所懸命リーダーになってやったとしたって上手い事いかん。
「させて貰います。」や。
我々、皆そうなんや。この断酒会で本当に生きていく事が出来るんやったら、この言葉、心を持って皆で接していきたいもんやな。こう私は思って発表させて貰いました
。以上で、苦言を呈(てい)しましたけれども、一所懸命頑張っていこうと思っています。有難うございました。(大拍手)
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